マーカーは多度津藩京極家下屋敷跡です。
関連リンク – 八戸藩南部家・出石藩仙石家・高富藩本庄家(山上藩稲垣家)上屋敷跡(アークヒルズ仙石山森タワー)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP727・コマ番号407/553の山上藩屋敷の変遷について記載されています。
稲垣太篤
[稲垣 太篤(いながき もとあつ、文化7年8月1日(1810年8月30日)- 文久2年12月8日(1863年1月27日))は、近江山上藩の第7代藩主。
第6代藩主・稲垣定成の長男。官位は従五位下、若狭守、安芸守、長門守。
初名は定国。文政10年(1827年)7月28日、将軍徳川家斉にお目見えする。天保5年(1834年)10月10日、父の隠居で家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下若狭守に叙任する。天保12年7月8日、大番頭に就任する。弘化3年(1844年)6月18日、奏者番に就任する。安政5年(1858年)6月25日、若年寄に就任する。安政7年5月28日、解任される。万延元年(1860年)8月6日、婿養子の太清に家督を譲って隠居し、文久2年(1862年)に53歳で死去した。 (wikipedia・稲垣太篤より)]
稲垣太清
[稲垣 太清(いながき もときよ、天保11年9月11日(1840年10月6日)- 明治21年(1888年)9月20日)は、近江山上藩の第8代藩主。
三河岡崎藩主・本多忠考の六男。官位は従五位下、正五位、若狭守。
安政3年(1856年)2月、稲垣太篤の養子となる。安政3年11月15日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下若狭守に叙任する。万延元年(1860年)8月6日、養父太篤の隠居により、家督を相続する。文久3年(1863年)7月10日、大番頭に就任する。慶応2年(1866年)1月18日、大坂定番を命じられる。同年2月3日、大坂への赴任にあたり、幕府から3000両を貸し与えられる。慶応3年5月23日、大坂定番が廃止となる。同年12月2日、海軍奉行並に就任する。慶応4年1月8日、海軍奉行並を解任される。
慶応4年(1868年)3月18日、上洛し、明治政府支持の姿勢を示す。同年7月23日、明治政府へ兵糧として1000俵を献納する。明治維新頃から太清が病に倒れ、長男の太祥が代理として藩政を執り始めた。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により、山上知藩事となる。明治4年(1871年)、廃藩置県により、知藩事を解任される。同年9月30日、隠居し、長男太祥に家督を譲った。明治21年(1888年)に49歳で死去した。 (wikipedia・稲垣太清より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図四つ切右下に稲垣安芸守(稲垣太篤)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/5・絵図四つ切左上、新堀川左に稲垣安芸守(稲垣太篤)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は港区白金1丁目4地先交差点で、カメラ南西方向が山上藩稲垣家下屋敷跡になると思います。