川越藩(前橋藩)越前松平家下屋敷跡

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松平直侯
[松平 直侯(まつだいら なおよし)は、天保10年(1839年)1月9日、常陸国水戸藩主・徳川斉昭の八男(庶子)として江戸小石川にて誕生。母は家老山野辺義質の娘で斉昭側室の直。江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(斉昭七男)のすぐ下の弟にあたる。幼名は八郎麿、初名は父より偏諱を受け昭融を名乗る。
川越藩5代藩主・松平典則の養子となって直侯と改名、嘉永7年(1854年)8月13日の養父の隠居により家督を継ぎ、安政元年(1854年)12月16日に従四位下・大和守に叙位・任官する。
安政2年(1855年)1月に元服する。文久元年(1861年)12月6日に家督を養子・直克に譲って隠居し、直後の12月10日に死去した。享年23。  (wikipedia・松平直侯より)]

松平直克
[松平 直克(まつだいら なおかつ)は、天保11年(1840年)2月26日、筑後国久留米藩9代藩主・有馬頼徳の十三男として(数え方により、五男とも記される)江戸にて誕生。頼徳には多くの男子があったが、成長したのは頼永(四男)、頼功(六男、亀井茲監)、孝五郎(七男、頼咸)および富之丞(有馬頼敦→松平直克)の4人のみであった。富之丞は幼少より俊敏利発で、また末弟であったことからも、10代藩主となった長兄・頼永に鍾愛されたという。
頼永が病に臥し、その跡目が取り沙汰されるようになると、凡庸とされた孝五郎に代えて聡明な富之丞を擁立しようとする動きがあった(六男・頼功はこれより先に亀井家を継ぎ、津和野藩主となっている)。久留米藩では水戸学を奉じる一派「天保学連」が頼永に起用されて影響を及ぼしていたが、天保学連の若手で頼永に近侍していた村上守太郎や野崎平八らは、万一の際にはまずは孝五郎を立て、富之丞が15歳になったら藩主の地位を継がせるという腹案を持っていた。一方、天保学連の指導層にあたる真木保臣や木村三郎らはこれを知り、長幼の序を乱すものとして反対した。天保学連は、後継問題を契機として、村上ら「内同志」派と真木ら「外同志」派に分裂、以後長く対立することとなった。
川越松平家相続と幕政への参与
文久元年12月6日(1862年)、川越藩6代藩主・松平直侯の婿養子となり、家督を継いだ。文久2年12月15日(1863年)に従四位下・侍従・大和守に叙位・任官する。
文久3年(1863年)10月11日、前任の松平春嶽の辞職以降空席となっていた政事総裁職に就任、親藩大名ながら幕政に参画する。文久4年(1864年)1月には、14代将軍・徳川家茂と共に上京し、朝廷および参預会議との折衝にあたった。その後は孝明天皇の意向に沿い、禁裏御守衛総督一橋慶喜と共に横浜港の鎖港を推進、同港鎖港を名目に挙兵した天狗党の乱の鎮圧にも反対したことから、他の幕閣と激しく対立した。元治元年(1864年)6月、政争は両派共倒れの形となり、直克は政事総裁職を罷免され、以後は幕政から退いた。
前橋への復帰と明治維新
直基越前松平家は18世紀半ばの松平朝矩の代に前橋城を本拠とする前橋藩に転封してきたが、度重なる利根川による浸食被害を受けて崩壊の危機に晒された前橋城を放棄し、幕府の許可を得て武蔵川越城に本拠を移転(川越藩)、前橋は分領として派遣の代官支配とした。前橋城は明和6年(1769年)に廃城・破却されていたが、旧来の藩都である前橋領では前橋城再建と藩主の前橋復帰の要望が強かった。天保年間に郡代奉行の安井政章(安井与左衛門)の指揮の下で利根川の改修が進められたことに加え、横浜開港後に前橋領の生糸の外国輸出によって財を成した前橋商人の間に、前橋城再建・藩主「帰城」のため藩に献金する経済力と気運が高まった。直克は文久3年(1863年)、幕府に願い出て前橋城の再築城を開始(工事の開始は5月であるが、幕府から正式な許可が下りたのは年末である)。慶応3年(1867年)3月、直克は前橋に本拠を移し、再び前橋藩となった。
慶応4年(1868年)3月、新政府に帰順して上野全土の鎮撫を務め、続いて会津藩と戦った。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により前橋知藩事に任じられるが、8月17日に、長男・恒之丞(後の直之)が幼少であったため、家督を養子の直方に譲って隠居した。  (wikipedia・松平直克より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図中央下に松平八郎麿(松平直侯)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図中央右方向に松平大和守(松平典則)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は高輪警察署前交差点で、カメラ南西方向が川越藩(前橋藩)松平家下屋敷跡になります。