播磨三日月藩森家上屋敷跡

マーカーは藩森家上屋敷跡案内板です。

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP863・コマ番号475/553から三日月藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 目黒行人坂」がこの地になります。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図中央右方向・「下目黒」右方向、目黒川右方向に森河内守と描かれています。]

播磨三日月藩森家上屋敷 
[品川区域にあった大名屋敷のなかで、唯一の上屋敷が、播磨国兵庫県三日月藩主・森家の屋敷(藩邸)でした。場所は、山手線目黒駅近くの花房山通りに面した品川区上大崎三丁目の1番10番11番12番付近にあたります。上屋敷は江戸本邸としての役割をもち、藩主や家族が居住していたところです。森家は、戦国時代織田信長の下で活躍した外様大名で、その一族には本能寺の変で討ち死にした森蘭丸もいます。三日月藩の藩祖 森長俊は、美作国(みまさかのくに)津山藩岡山県津山市)18万石の2代藩主 森長継の5男として生まれ、延宝4年(1676)、父から1万5000石を分与されました。さらに貞享元年(1684)には、津山新田藩として正式に大名として取り立てられます。しかし、元禄10年(1697)、本家の改易に伴い、領地を播磨国(はりまのくに)の3つの郡(佐用郡揖西郡(いっさいぐん) 宍粟郡(しそうぐん)の一部)に移されました。これが三日月藩の起こりで、以後幕末まで同地は森家の領地となります。改易となった津山藩は、隠居中の2代藩主・森長継が、西江原藩万石で立藩して、再勤となり、宝永3年(1706)、西江原藩2代藩主のときに、赤穂藩転封しています。このときの赤穂藩は元禄14年(1701)の刃傷事件で取り潰しとなり、浅野家に代わって下野国烏山藩永井直敬が入りましたが、5年で転封となり、その後に森家が赤穂藩に入ったのです。さて、三日月藩の大崎屋敷ですが、三日月藩というよりも、津山藩森家が、元禄10年(1697)より前に、抱屋敷としてこの地を手に入れました。その広さは5町4反余(約16300坪)でした。その後、三日月藩が立藩され、享保3年(1718)に、抱屋敷地のうち3500坪が拝領地となりました。さらに、享保13年には、周辺の井戸新兵衛所有地1町5反余(約4600坪)を譲り受け、抱え地は、約17400坪となり、拝領地とあわせて2万坪を超える広大なものとなったのです。この広大な大崎屋敷で、初代藩主 長俊は享保20年(1735)に87歳で亡くなり、近くの池上本行寺に葬られました。この屋敷は三日月藩唯一の江戸屋敷であり、藩の日記には、藩主が屋敷で月見の宴を開くなど、台地の端という土地柄を活かして江戸の生活を楽しんだ記述も見受けられます。明治維新後の三日月藩は、明治4年(1871)の廃藩置県により三日月県となり、姫路県飾磨県(しかまけん)を経て兵庫県に編入されました。明治以降、三日月藩上屋敷のあった一帯は、上大崎村字森ヶ崎という字名がついていました。この地名は、三日月藩主森家の「森」と周辺の地形が舌状台地であったため、その形を表わす「崎」をつけて「森ヶ崎」になったといわれています。それにしても、江戸城から遠いこの地に上屋敷をもった森家は、登城の度に苦労していたのではないでしょうか。  (「品川の大名屋敷 第13回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]

播磨三日月藩森家上屋敷跡資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図」(絵図中央に松平讃岐守下屋敷が描かれて、その左方向に森伊豆守上屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号6/7・絵図中央上方向に「森佐渡守」「森佐渡守抱屋敷」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [4]拾六中」(コマ番号4・地図右上方向に森佐渡守抱屋敷が描かれています。)

カメラ北方向に播磨三日月藩森家上屋敷跡の案内板があります。

播磨三日月藩森家上屋敷跡案内板(Google Map 画像)

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

*