マーカーは明治学院礼拝堂です。
関連リンク – 三田藩九鬼家上屋敷跡(国会議事堂敷地内前庭・都道府県の木)、三田藩九鬼家中屋敷跡(衆議院第二別館)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP832・コマ番号460/553から三田藩屋敷の変遷について記載されています。P833・コマ番号460/553「下屋敷 二本榎」がこの地になります。
[「東京実測図」の出た明治20年(1887)には、元「九鬼長門守下屋敷」跡に、築地にあった明治学院が移転してきました。「東京実測図」では玉名川の東側で、「海軍埋葬地」の南の一画です。こうしたところから『明治学院五十年史』には、学院の移転したころの、このあたりの景観について描写している文章がありますので、関連する部分を引用してみます。
明治学院の西側の台地(瑞聖寺の南側一帯の元武家地)は「全體が麥畑で其の邊りに銃巤禁止の立札が揚っていた。無論家らしい家の見えよう筈はないただあの瑞聖寺の高い屋根が今のままにあって、樹間に梵鐘を毎夕響かせて見た。(いた。か)」という状態でした。銃猟禁止とは、鴨池と呼ばれた玉名池に集まる鴨を撃つ人がいたためでしょう。
また、現在の学院正面の南にあった、広大な大名屋敷、旗本屋敷の跡(地図では二本榎西町と書き込みのある一帯)も「廣茫とした麥畑で、大久保公爵の所有地であった。今では随分立派な屋敷町になったが、當時は粗末な番小屋が一軒畑の片隅にあったばかりである。」というありさまで、まるで昔の農村地帯に戻ったかのような景観であったようです。このように周辺の武家地の多くは、畑になっていました。 (「<白金台の街と庭園 37> – 人と植物のつくる環境をデザイン …」より)]
明治学院礼拝堂
[日本に数多くの建物を残したW.M.ヴォーリズの設計により1916(大正5)年に竣工したこの礼拝堂は、ヴォーリズ自身の結婚式に使われたことからもよく知られる名建築。学院のキリスト教主義教育のシンボルとして、当初から同じ場所に立ち続けている。
元来は長方形だったが、学院の発展に伴い収容人数を増やすため1931(昭和6)年に両袖の増築工事が行われるなどの変遷があった。耐震性が不十分とされたことから、2006(平成18)年から2年をかけて壁の耐震補強、構造的に不安な2階席の撤去、正面講壇の復原等の全面的な保存修理工事を行った。現在の収容人数は最大600人ほどである。
この礼拝堂は1989(平成元)年、「港区指定有形文化財」に指定され、2002(平成14)年に東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」の指定も受けた。
また1966(昭和41)年に他の学校に先駆けてパイプオルガンが設置されたが、不具合な点が多くなったために、前述保存修理工事に合わせてオルガンの更新も行うこととなり、オランダのファン=エーケン氏に発注した新オルガンが2009(平成21)年10月に設置された。このオルガンの特徴は、いったん失われた17-18世紀のヨーロッパの工法を復活、再現したところにあり、このような工法で作られたものとしては世界で4台目、日本では初めてという貴重なもの。その「バッハの時代の音色」は専門家からも高い評価を得ている。 (「歴史的建造物 | 明治学院 – 学校法人明治学院」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図中下方向・瑞聖寺下方向に九鬼長門守(九鬼精隆)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図中央右方向に「九鬼長門守下屋敷」が描かれています。)
「東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図中央左方方向・白金今里町41番地に明治学院と記述されています、その場所が三田藩九鬼家下屋敷跡になります。明治学院の右には海軍墓地と記されています、この地は松本藩松平(戸田)家下屋敷跡になり、現在は明治学院大学白金キャンパス アートホールになっています。)
「明治学院礼拝堂(白金チャペル) – Google Map 画像リンク」「明治学院礼拝堂(白金チャペル) – Google Map 画像リンク」「明治学院大学 白金キャンパス – Google Map 画像リンク」
カメラ北北東方向が明治学院大学 白金キャンパス正面門です。