マーカーは杵築藩松平(能見)家下屋敷跡です。
関連リンク – 杵築藩松平家上屋敷跡(警視庁)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP841・コマ番号464/553から杵築藩屋敷の変遷について記載されています。P843・コマ番号465/553「中屋敷 麻布鷺ノ森」がこの地になります。
松平英親
[松平 英親(まつだいら ひでちか)は、江戸時代前期の大名。豊後国高田藩2代藩主、のち豊後杵築藩初代藩主。能見松平家7代。官位は従五位下市正。
高田藩初代藩主・松平重直の長男として誕生。寛永20年(1643年)正月に家督を継ぐ。
正保2年(1645年)、高田から杵築3万2000石に移封された。藩政を確立するために25か条の法令を始め、寛文2年(1662年)からは検地を実施して新田開発などに尽力した。明暦2年(1656年)の日根野吉明改易時の府内城受け取り役も務めている。
元禄5年(1692年)12月4日、長男・重栄に家督を譲って隠居し、宝永3年(1706年)3月10日に82歳で死去した。 (wikipedia・松平英親より)]
松平親良
[松平 親良(まつだいら ちかよし)は、豊後国杵築藩8代藩主・松平親明の長男として誕生。文政8年(1825年)12月29日、父の死去により跡を継ぐ。文政9年11月15日、11代将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下河内守に叙任する。後に対馬守、大隅守に改める。天保13年(1842年)7月25日、奏者番に就任する。
文久2年(1862年)閏8月23日、奏者番の役職が廃止となる。同年12月16日、従四位下中務大輔に昇進する。文久3年10月22日、奏者番に再び就任する。元治元年(1864年)11月19日、寺社奉行の兼任を命じられる。慶応2年(1866年)6月15日、寺社奉行を解任される。慶応4年2月22日、奏者番を辞職する。
親良自身は幕閣に加わったことから佐幕派であり、慶応2年(1866年)の第二次長州征討においても協力的であったが、藩内では尊王攘夷派と佐幕派で分裂して対立が続いた。そのため、慶応4年(1868年)3月24日、ようやく上洛し、明治天皇に拝謁した。そして、同年4月9日、長男の親貴に家督を譲って隠居した。 (wikipedia・松平親良より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [4]拾六中(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/5・絵図四つ切右上、板倉伊予守抱屋敷の上に松平市正(松平親良)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図四つ切右下に松平市正(松平親良)下屋敷が描かれています。この絵図では板倉伊予守抱屋敷を含んだ形で描かれています。)
カメラ位置は港区白金3丁目7-9地先で、カメラ南西方向が杵築藩松平(能見)家下屋敷跡になると思われます。