松本藩松平(戸田)家下(抱)屋敷跡(白金海軍墓地跡・明治学院大学)

マーカーは明治学院大学パレットゾーン白金です。

関連リンク – 松本藩松平(戸田)家上屋敷跡松本藩松平家中屋敷跡(東洋英和女学院)

松平光則
[文政11年(1828年)、信濃松本藩第8代藩主・松平光庸の次男として生まれる。
弘化2年(1845年)10月22日、光庸の隠居により家督を相続した。
文久元年(1861年)の和宮降嫁では中山道本山宿から下諏訪宿まで沿道守衛を担当した。文久2年(1862年)、幕命により東禅寺警衛役を任ぜられるが、藩士伊藤軍兵衛が引き起こした第二次東禅寺事件により、光則は差控となり、翌年相模国浦賀の警備役を命ぜられた。
元治元年(1864年)、天狗党の乱鎮圧のため中山道和田峠に派兵したが敗退する。禁門の変が起こると、縁戚にあたる正親町三条実愛邸に藩士を派遣して警衛に当たらせた。長州征討にも幕府方として参戦した。
慶応4年(1868年)1月17日、徳川慶喜から碓氷関の守備を命じられる。同年2月、藩論を勤皇にまとめ、官軍の松本到着直前に恭順した。同年8月9日、上洛し、20日、明治天皇に拝謁する。その後、北越戦争会津戦争に参戦する。戦功により翌年に賞典禄3000石を下賜された。
明治2年(1869年)6月19日、版籍奉還を許可され知藩事となる。明治4年(1871年)7月、廃藩置県で免官。この間、領内で徹底した廃仏毀釈を断行し、菩提寺全久院を廃寺解体した。  (wikipedia・松平光則より)]

白金海軍墓地(白金海軍葬儀場)
[東京都港区にあった海軍墓地。戦後は払い下げられ、明治学院大学白金キャンパスとなる。現在は旧海軍軍人白金墓地記念堂がある。  (wikipedia・海軍墓地より)]

明治学院大学内白金海軍墓地跡
[元は信州松本藩松平家の下屋敷。明治初期に海軍の葬祭地になり、大正末以降、明治学院大学の敷地となったとされています。日清日露戦争の犠牲者を祭り、桜田通りに面した場所にありますが、現在は中に入ることはできません。
また、明治学院大学内には港区や国の重要文化財などに指定された、明治時代、大正時代の3棟の洋風建築が残されており、見学もできます。  (「Vol.13 地名で読む街の歴史 【白金編】 | 東京の高級賃貸 …」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図中下方向・瑞聖寺下方向に松平丹波守(松平光則)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図中央右方向に松平丹波守下屋敷・抱屋敷が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図中央左方向・白金今里町39番地に海軍墓地と記述されています、その場所が松本藩松平(戸田)家下(抱)屋敷になります。)

カメラ西方向が白金海軍墓地跡の建つ、旧海軍軍人白金墓地記念堂で、その向こうの建物は明治学院大学パレットゾーン白金になります。