権之助坂

    上地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。

    国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(上絵図は江戸御場絵図からの切り取りコピーです。江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示(北向き)・中央右方向・「森河内守」左上に「権之助」と描かれています。)

    東京府15区8郡時代の町村区分図」 – 「最新交通指導地図荏原郡碑衾町」[地図右上目黒町のめぐろ駅から日出高等女学校までが権之助坂です。改修前の二子道(目黒道)が描かれています。]

    今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
    1896~1909年地図で千代崎の左が)が権之助坂です。

    権之助坂
    [江戸時代の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり引かれて行く。「権之助、なにか思い残すことはないか」と問われて、「自分の住んだ家が、ひと目見たい」と答える。馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。
    また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。  (「権之助坂 目黒区」より)]

    国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図」(絵図中央左上・細川越中守下屋敷の上方に行人サカ・大圓寺が描かれ、その右上に権之助サカが描かれています。)

    権之助坂上・カメラ西北西方向が権之助坂です。

    権之助坂中・カメラ東、西方向が権之助坂です。

    権之助坂下・カメラ東北東方向が権之助坂です。

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