マーカーは雉子宮です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図中央右方向・「上大崎」右上方向に雉子宮が描かれています。]
雉子宮
[雉子神社は、文明年中(1469-1487)の創立といわれています。慶長年間に徳川三代将軍徳川家光が当地に鷹狩りに来た時、一羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に参詣し、「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、雉子ノ宮と改称、江戸時代には上大崎村・下大崎村・谷山村の鎮守でした。(「猫のあしあと」より)]
[江戸時代の下大崎村の範囲は、現在の五反田駅周辺にあたり、東五反田1丁目から5丁目と西五反田1丁目の一部の地域です。下大崎村の名所として「雉子(きじ)の宮」(現在、雉子神社)が挿絵入りで紹介されています。別当寺だった宝塔寺の元三大師堂(がんざんだいしどう)とともに描かれ、江戸名所図会の挿絵のなかでは、珍しく雪景色で冬の情景を描いたものです。雉子の宮(雉子神社)は、江戸時代の上大崎村・下大崎村・六軒茶屋町(現在の上大崎2・3丁目の目黒通り沿い)・永峯町・谷山(ややま)村の鎮守です。『江戸名所図会』に「雉子の宮」に伝わるお話として「慶長のころ(1596年~1614年)に、3代将軍徳川家光がこのあたりで鷹狩りをしたところ、1羽の白い雉子がこのお宮に飛び込んで、見えなくなりました。家光はこの社に詣でたあと村民に、このお宮の名をたずねました。村民は「山の神の祠(ほこら)(大鳥明神)」と答えたところ、これからは「雉子の宮と呼ぶように」と命じたと伝えています。 (「江戸から明治の品川名所 第9回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]
雉子宮資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図」(絵図左下・凡例上に「雉子宮 宝等寺(宝塔寺)」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号3/7・絵図四つ切右下「松平七五郎」上方向に「雉子宮 宝塔寺」が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「雉の宮」(7-42)、「雉子宮解説・右ページ9行目から」(7-41)
雉の宮(拡大図)
[図会左ページに雉子宮、右ページに宝塔寺が描かれています。]
雉子宮参道口鳥居前のカメラです。
雉子宮拝殿前のカメラです。