立慶橋(隆慶橋)

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立慶橋(隆慶橋)
[幡随院長兵衛が旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之・神楽坂上の袋町にあった新暦調御用所跡地が水野十郎左衛門の屋敷跡とされるが定かではない。)に呼び出され殺害され、その遺体が江戸川に架かる立慶橋(隆慶橋)から流したとされ、この風評について、江戸後期の風俗記「久夢日記」(作者不詳)に下記のように記述されているようです。
『長兵衛在宿をきゝ。馬より下り。水野十郎左衛門ししや保昌庄左衛門ともふすもの。 主人もふしこし候おもむきは。毎度御名前は聞および候。いまだ御意をゑず候。一昨日森田が芝居にて。ふりよのけんくわこれあり。そのせつ家来酒にたべゑい。そこもと同心のものへ慮外いたし。 御りつぷくにて御てうちやくにあづかり候。見うけもふし候ところ。御身のとりまわしあつぱれおそれ入候。世上にてなにとひうばんいたし候とも。十郎左衛門はあたつてくだくる心底ゆへ。 さやいのぎかつもつて心服にとめもふさず候。そこもと御きりやう。江戸にうへこすものもあるべからずとぞんずる上は。以来御こゝろやすく。御意ゑもふしたくぞんじ候。 明日御ひまにも御ざ候はゞ。御出下されまじくや。そのためししやをもつてもふし入候。長兵衛つゝしんで御口上うけ給はり。これはぞんじもよらぬ御れきれき様より。 御いんぎんの御ししや下され。御うけもふしあげ候やうも御ざなく候。なにぶん御意にまかせ。明日伺公つかまつり。御礼申あげべく候とこたへて。 ししやをかゑしぬ。長兵衛しあんして。これはそれがしを呼寄。意趣をはらすとの支度なり。水野が方へ延引せば。男達の名をけがすなり。 友達にさうだんするはひけうなり。死ぬかくごしてまゐらんと。死せうぞくし。水あさぎの上下に。二尺八寸の花かいらけのさやの脇さしをさして。 供をもつれずたゞひとり。水野屋敷へまいり玄関より上り。ししやの間へとふし。役人ども出むかひ。一とふりのあいさつもすみて。 それより居間へとふし。山海の珍味をいだし。いろいろちそうにて。大酒いたさせこゝろをゆるさせ。大勢にてころしぬ。寛文五巳年より十八年のあひだ男達。 当年三十六歳にて。水野十郎左衛門がために横死しける。死骸はちうげんどもにもふしつけて。隆慶橋より流しける。それより三日め。長兵衛がゆきがたしれざるゆへ。 唐犬権兵衛。放駒をはじめとして。男達ども十方へわかれてたづぬるところに。隆慶橋の川下にて死骸を見つけ。これうたがふところなく水野のしわざとさつし。 死骸は幡随院へほうむり。あとねんごろにとむらひける。』]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 小日向絵図」(絵図左中・神田川から二つ目の橋が立慶橋です。)

カメラ位置は立慶橋(隆慶橋)東詰です。

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