マーカーは赤羽小学校です。
関連リンク – 久留米藩有馬家下屋敷跡、柘榴坂(薩摩藩島津家・久留米藩有馬家下屋敷跡)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP698・コマ番号393/553から久留米藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 三田町通右角」がこの地になります。
久留米藩有馬家
[久留米藩(くるめはん)は、筑後国御井郡の久留米城(現在の福岡県久留米市)に藩庁を置いた藩。1620年以降幕末まで摂津有馬氏が藩主を務め、21万石を領した。米藩(べいはん)とも称される。元和6年(1620年)、丹波国福知山藩8万石の大名であった有馬豊氏は、13万石の加増を受け、久留米21万石の領主として入封した。大幅な加増は大坂の陣の功績とされる。なお、有馬氏末裔の有馬頼底は「大した働きもしていないのに13万石加増になったのは不可思議である」旨の発言をしている。
第7代藩主・有馬頼徸は54年間にも及び藩主の座にあった。彼は数学者大名として有名で、関流和算の大家であり数学書・『拾璣算法(しゅうきさんぽう)』全5巻を著述した。しかし藩政においては享保17年(1732年)、享保の大飢饉が起こり、ウンカによる大被害のため飢饉となり多数の餓死者を出した。更に御殿造営、幕府の命による東海道の諸河川改修手伝いによる出費を賄うため増税を行った。これに対し、領民は6万人規模にも及ぶ一揆を起こすなど、彼の治世は平坦なものではなかった。
第8代藩主・有馬頼貴は天明3年(1783年)に学問所(藩校)を開き、文教の興隆をはかった。天明7年(1787年)には学問所は「修道館」と名付けられたが、寛政6年(1794年)に焼失した。寛政8年(1796年)、藩校を再建し新たに「明善堂」と名付けられた。以後、今日の福岡県立明善高等学校に至っている。幕末の勤王家・真木和泉は当藩校の出身である。幕末には前述の真木和泉が出たものの、藩論の大勢は佐幕であった。しかし、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が始まると官軍方に転じた。だが、後に過激な攘夷派が政権を掌握して二卿事件と呼ばれるクーデター未遂事件と関わったために、明治4年(1871年)に明治政府の命令を受けた熊本藩に城を占拠された(久留米藩難)。 (wikipedia-久留米藩より)]
下絵は「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔東都名所〕 〔芝赤羽橋之図〕」よりのコピーで、赤羽橋から久留米藩有馬家上屋敷を見た情景です。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東都名所芝赤羽根増上寺」よりのコピーで、中ノ橋より増上寺を見た情景で、前の橋が赤羽橋で、右の屋敷が久留米藩有馬家上屋敷です。
久留米藩有馬家資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右中上付近に有馬中務大輔上屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/2・絵図中央右端に有馬孝五郎と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉より麻布白金御殿跡辺絵図 : 寛保延享(1741年-1748年)之頃」(コマ番号2/7・絵図左に「有馬中務大輔」と描かれています。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図(天保十三年・1842年)」(コマ番号2/5・絵図下中央左に「有馬玄蕃頭」と描かれています。)
カメラ南西方向・東京都済生会中央病院、三田病院、赤羽小学校、都立三田高校を含む一画が久留米藩有馬家上屋敷跡です。