マーカーは今治藩松平(久松)家下屋敷です。
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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP362・コマ番号225/553から今治藩屋敷の変遷について記載されています。P364・コマ番号226/553「下屋敷 下高輪」がこの地になります。
松平勝道
[松平 勝道(まつだいら かつみち/かつつね)は、9代藩主。官位は従五位下・若狭守、駿河守。
文化10年(1813年)1月13日、池田政行(6代藩主・松平定休の六男)の次男として誕生。天保5年(1834年)3月26日に従兄で8代藩主・松平定芝の婿養子となり、同年12月22日に従五位下・若狭守に叙任する。天保8年(1837年)9月12日、定芝の死去により家督を相続した。
天保14年(1843年)10月1日から文久2年(1862年)閏8月23日まで奏者番を務めた。この間、弘化3年(1846年)12月には駿河守に転任、嘉永6年(1853年)、将軍が交代して徳川家定が就任すると、その偏諱(「定」の字)を避ける形で初名の定保(さだやす)から勝道に改名した。藩政においては文治政策に尽力し、種痘を実施し、万延元年(1860年)には古江浜塩田を完成させるなどした。文久2年(1862年)11月21日、自身の養子となっていた定芝の三男・定法に家督を譲って隠居し、慶応2年(1866年)8月6日に死去した。 (wikipedia・松平勝道より)]
松平定法
[松平定法は天保5年(1834年)12月29日、伊予国今治藩8代藩主・松平定芝の三男として誕生。天保8年(1837年)に父が死去したときは幼少のために跡を継げず、代わりに定芝の婿養子となった勝道が跡を継いだ。定法は天保11年(1840年)5月23日に勝道の養子となった。嘉永3年(1850年)12月16日に従五位下、壱岐守に叙任する。文久2年(1862年)11月22日、勝道の隠居に伴い跡を継いだ。
藩政においては、文久3年(1863年)に軍備を洋式軍制に改め、今治海岸に砲台を創設した。幕末期の動乱の中では、佐幕派と尊王派の間で仲介、周旋などに尽力したが、慶応2年(1866年)の第二次長州征討での幕府軍敗退を契機に、14代将軍・徳川家茂にその中止を進言しながら、次第に薩長側に与するようになる。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に従って京都に出兵し、御所を警備した。後に甲府城の警備、江戸・奥州・会津征伐にも出兵した。同年、太政官布告により、本家の伊予松山藩松平家とともに、源姓松平氏から本来の菅原姓久松氏に復姓する。
明治2年(1869年)6月の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官となる。 (wikipedia・松平定法より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切左上・有馬中務大輔下屋敷左に松平駿河守(松平勝道)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図中央左下、松平若狭守(松平勝道)下屋敷が描かれています。)
カメラ西方向、道路を含む一帯が今治藩松平(久松)家下屋敷あとになります。