仙台藩伊達家下屋敷跡(旧島津公爵邸)

マーカーは清泉女子大です。

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国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示で絵図中央右方向・「上大崎」の右上方向に松平政千代と描かれています。)

伊達藩下屋敷
[仙台藩伊達家が、現在の東五反田3丁目清泉女子大学付近の約1万6千坪に及ぶ大崎屋敷を手にいれたのは、元文2年(1737)、5代藩主、伊達吉村のときでした。伊達家は大井村下屋敷の一部を鯖江藩間部家 の大崎屋敷と交換したのですが、交換に当たっては、鉄砲組頭で目付などを歴任した旗本の佐々木五郎右衛門などに仲介を依頼し、交換実現後には、謝礼を支払っています。ともに面積1万6千坪あまりで、似たような環境同士の屋敷地の交換でも、いろいろと工作をする必要があったのでしょう。後、寛保3年(1743)、伊達吉村隠居の年には、大崎屋敷の続き地、約6千坪を得て2万2千坪を超える広さになりました。大崎屋敷の北の境は、時の鐘で知られた寿昌寺 (じゅしょうじ)でした。大崎屋敷を手に入れた伊達吉村は、延宝8年(1680)分家筋の宮床伊達家 (みやとこだてけ)、伊達宗房の長男に生まれ、元禄8年(1695)、15歳のとき仙台藩4代藩主伊達綱村の養子となり、元禄16年(1703)に養父綱村の隠居にともなって家督を継いでいます。このころ仙台藩の財政は逼迫していたため、吉村は藩財政の再建に取り組みました。江戸幕府の許可を得て石巻銭座 を開設し、寛永通宝を鋳造し利益をあげ、また、領内米を藩が独占購入し、江戸廻米 (江戸に輸送する米)を飛躍的に増大させて藩財政を潤わせたのです。吉村は、こうして財政危機を克服し再建したことから「中興の英主(名君)」と讃えられています。また、歌人としても名高く、書、絵画などにも優れており、藩の子弟教育のために学問所を開いて学芸を奨励しました。享保9年(1724)には、伊達家歴代当主の肖像画を長谷川養辰に描かせるために、自ら筆を執って下絵を描いています。そのなかには吉村の自画像もあり、それらの下絵には色使い・描き方などの指示が書き込まれています。また、下絵だけでなく絹本に描いた彩色の「自画像」はじめ双幅の「竹梅図」、「六所玉河和歌御手鑑」 (ろくしょたまがわわかおてかがみ)一帖など数多くの優れた作品を残しました。寛保3年(1743)、吉村(62歳)は、4男の伊達宗村に家督を譲って隠居しました。吉村は幕府に数年前より病のため隠居を申し出ており、大崎屋敷は自らの隠居生活をおくるために入手したと推測されます。この屋敷は富士山を仰ぐ江戸南郊の高台で眺めのよい別邸でした。ここで吉村は、和歌や書画を楽しんだと伝えられています。吉村は宝暦元年(1751)、72歳で、大崎屋敷にて惜しまれつつこの世を去りました。明治維新後、吉村が隠居した仙台藩伊達家大崎屋敷は、島津公爵家(旧鹿児島藩主)の屋敷となりました。その後、一部は宅地になりましたが大部分は現在の清泉女子大学のキャンパスとなり、現在に至っています。  (「品川の大名屋敷 第3回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図」(絵図左上方向に松平陸奥守下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下」(コマ番号4/5・絵図中央上に松平薩摩守下屋敷 抱地が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [5]拾六下」(コマ番号118/171・間部越前守と描かれています。コマ番号119/171・松平陸奥守と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 品川芝筋白金麻布. [1]」(コマ番号3/8・絵図中央上に松平陸奥守下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号3/7・絵図中央左下方向に「松平陸奥守」が描かれています。)

清泉女子大学 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向が伊達藩下屋敷跡(旧島津公爵邸)・現在は清泉女子大です。

旧島津公爵邸前のストリートビューです。

伊達藩下屋敷跡(旧島津公爵邸)
[本学を構えるこの地は「袖ヶ崎」と呼ばれ、元文2年(1737年)仙台藩伊達家の下屋敷(敷地面積22,670坪)となり、明治初年に島津家の所有に移るまで約130年間使われました。主に公式行事の開催場所に使用され、大正12年(1923年)の関東大震災後は、この邸宅のみが無傷であったことから、ご家族の住居として使用されていました。袖ヶ崎邸は、当初伊達家の大名屋敷をそのまま使用していましたが、老朽化が進ん だため洋館を新築することを計画し、日本政府の招きにより来日して工部 大学校建築学科教授であった英国人ジョサイア・コンドル氏に明治39年(1906年)に設計が 委属され、その後数度の設計変更を経て、大正4年(1915年)に建物は竣工。その後洋画家で知られる黒田清輝の指揮の下、館内の設備や調度が整えられ、大正6年(1917年)に落成披露が行われまし た。昭和初期に昭和金融恐慌のあおりで島津家も財政的な打撃を受け、当初2万8千坪あった敷地を昭和4年(1929年)には8千余坪を残し、周辺部を売却、その後第二次世界大戦の苛烈化に伴い大邸宅の維持が困難となり、島津家は袖ヶ崎邸も日本銀行に売却しました。戦中、戦災を免れた邸宅は、戦後昭和21年(1946年)1月にGHQの管理下に入り、駐留軍の将校宿舎として昭和29年(1954年)まで使用されました。そして接収解除後の昭和36年(1961年)7月、清泉女子大学は日本銀行から土地と建物を購入し、昭和37年(1962年)4月に神奈川県横須賀から大学を移転して、今日に至っています。  (「清泉女子大学 – 旧島津公爵邸案内:概略と歴史」より)]

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