品川宿本陣跡(聖蹟公園)

マーカーは聖蹟公園です。

五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
品川宿図(拡大元画像・絵図中央右下、北品川宿二丁目左下に本陣と記述されています。)

品川宿本陣跡(聖蹟公園)
[東海道品川宿本陣跡。明治5年に宿駅制度が廃止された後は警視庁品川病院となりましたが、昭和13年に公園として整備され今に至ります。明治元年(1868)の明治天皇東幸の際に行在所となったため「聖蹟公園」という名がついています。
江戸時代、品川宿は日本橋を起点とする東海道最初の宿場町として栄えていました。大名や勅使が休息・宿泊する旅宿は本陣といわれ、江戸前期には北品川宿、南品川宿にそれぞれの本陣がありましたが、中期以降は北品川宿1つだけになりました。現在の本陣跡は1771年に定着し、品川三宿のほぼ中央に位置しています。
園内には当時の東京市長の撰文になる「聖蹟公園由来の碑」「聖徳の碑」「御聖蹟の碑」「石井鉄太郎胸像」などの記念碑、公園入口には、土山宿から贈られた街道松があります。 (「聖蹟公園(品川宿本陣跡) | しながわ観光協会」より)]

[本陣の建物は、武家屋敷に見られるような、門、玄関、書院などがあり、大名行列駕籠長持ちなどの荷物を置く場所が設けられていた。大名の宿泊時には、その大名の名前を帰した関札を建て、紋の入った幕を掲げたという。品川宿の本陣はまた、明治維新大政奉還に際し、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所(あんざいしょ)にもなった。明治5年(1872)宿駅制度が廃止された後警視庁品川病院となり、昭和13年(1938)聖蹟公園となった。 品川の歴史めぐり-品川区教育委員会  (「品川宿本陣跡」より)]

[江戸幕府寛永12年(1635)の武家諸法度参勤交代を義務づけました。東海道を通った大名は、文政4年(1821)の記録では、全国の大名の総数262名のうち、153名で、58%をしめていました。さらに毎年下向する勅使・院使、あるいは将軍名代の大名や高家に、公用の旅行者などが加わり東海道の各宿を通ったので、宿場の負担は大変なものでした。なかでも品川宿は江戸に一番近い宿場なので、通行量が最も多かったところです。また、参勤交代の大名の帰国時期は、外様大名は4月、譜代大名は6月と決められていました。農繁期に集中していたため、助郷として人馬を出さなければならなかった周辺の村々には重い負担となっていました。この時期の品川宿は何日も連続して混雑し、問屋・本陣・旅籠屋ともに、最も多忙なときでした。さて、参勤のために江戸へ入る大名は、品川宿で小休憩し、それまでで旅装束を改めて江戸屋敷に入り、その日のうちに江戸に着いたことを老中その他の関係者に報告に出かけるのが一般的でした。  (「品川区ホームページ – 東海道品川宿のはなし 第1回」より)]

品川宿 – Google Map 画像リンク」「品川区立聖蹟公園 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向が品川宿本陣跡(聖蹟公園)です。

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