マーカーは小松藩一柳家下屋敷跡です。
関連リンク – 小松藩一柳家上屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP784・コマ番号436/553から小松藩屋敷の変遷について記載されています。「下屋敷 三田寺町」がこの地になります。
一柳頼紹
[一柳 頼紹(ひとつやなぎ よりつぐ)は、文政5年(1822年)、伊予国小松藩主一族である旗本村越成芳(第5代藩主・一柳頼寿の六男)の二男として生まれ、叔父にあたる一柳寿重(頼寿の七男)の養子となった。『平成新修旧華族家系大成』では一柳寿重の二男と記している。
天保3年(1832年)8月21日、従兄に当たる先代藩主の頼親が死去したため、末期養子として家督を相続した。天保9年9月15日、将軍徳川家慶にお目見えした。同年12月16日、従五位下兵部少輔に叙任する。藩政では文教政策に尽くした。また、幕末の動乱の中で、頼紹は尊王派として三条実美や澤宣嘉らと親交を持った。
慶応3年(1867年)11月5日、病気を理由に上洛の延期を朝廷に申し出る。慶応4年1月15日、重臣近藤十左衛門を上洛させて、新政府支持の姿勢を示した。同年2月、病気を理由として藩主に代わり、嫡子頼明を上洛させた。藩論を尊王でまとめた頼紹は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争において新政府側に与し、藩兵を越後(北越戦争)や出羽山形方面に出動させた。
明治2年(1869年)、戊辰戦争の功績として賞典金2000両を与えられる。同年6月24日、版籍奉還により知藩事となるが、直後の7月14日に東京で死去した。享年48。跡を頼明が継ぎ、知藩事となった。 (wikipedia・一柳頼紹より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(寛永三年・1850年)」(絵図四つ切右上、細川越中守中屋敷右方向に一柳兵部少輔(一柳頼紹)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(絵図コマ番号2/2・絵図中央左上に一柳兵部少輔(一柳頼紹)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は魚籃坂下交差点で、カメラ北北東方向が小松藩一柳家下屋敷跡になると思います。