小泉藩片桐家下屋敷跡

マーカーは小泉藩片桐家下屋敷跡です。

関連リンク – 小泉藩片桐家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP767・コマ番号427/553から小泉藩屋敷の変遷について記載されています。P767・コマ番号427/553「下屋敷 芝伊皿子横町」がこの地になります。

片桐貞隆
[片桐 貞隆(かたぎり さだたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。大和国小泉藩の初代藩主。
片桐直貞の次男で、片桐且元の弟である。21歳の時に兄と共に豊臣秀吉に仕え、播磨国に150石の所領を与えられた。その後、小田原征伐文禄の役などに従軍したことから、播磨国内に1万石余の所領を与えられる。秀吉没後は兄と共にその子豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に就いて大津城の戦いに加わったが、所領は安堵された。慶長19年(1614年)6月、大野治長と共に徳川家康の口添えで5千石を秀頼より加増され、その礼として治長と駿府にいる大御所家康、次いで江戸の将軍徳川秀忠を訪ねる。しかし、大坂に戻ってくるなり方広寺鐘銘問題が噴出し、これを契機に家康との内通を疑われるようになり、兄と共に豊臣家の下を去って家康に仕えるようになり、大坂夏の陣の後、1615年、大和国小泉に1万6千石を知行された。
兄より遥かに激しい気性の持ち主であったと言われている。  (wikipedia・片桐貞隆より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図右下、寺地エリア内に片桐助作(片桐貞照)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央上・泉岳寺右に片桐助作(片桐貞照)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は伊皿子坂緑地前で、カメラ西南西方向が小泉藩片桐家下屋敷跡になると思われます。