マーカーは御殿山庭園です。
御殿山
[現在の北品川4・5丁目の高台を、御殿山と呼んでいます。この地は江戸時代、桜の名所として知られ、江戸や近郷から春になると花見客が押し寄せたところです。御殿山は飛鳥山(北区)・隅田堤などとともに桜の名所として江戸市民に親しまれていました。 御殿山が桜の名所となる前は江戸幕府の御殿があり、参勤交代で江戸にきた西国大名の送迎をしたところで、後には将軍が鷹狩に出たときの休息所や茶会などの将軍家の行事に利用されていました。ところが、元禄15年(1702)の四谷塩町から出火した火事は南に広がり、この御殿も焼失してしまい、その後、御殿は再建されることはありませんでした。
この地の桜は寛文年間(1661~)に吉野山から移植したものといわれていますが、庶民の花見の場所として整備されたのは、享保元年(1716)に8代将軍になった徳川吉宗のときで、御殿山はじめ飛鳥山・隅田堤・小金井などに植樹を行って、園地(公園)化していきました。享保3年には幕府によって櫨(はぜ)が植えられ、秋には紅葉して美しく、春の桜とともに御殿山の名を一層たかめたのです。御殿山の樹木は、文政7年(1824)の記録によれば、広さ3町8反5畝(せ)29歩(3万8千平方メートル余り)に1,415本の樹木があり、主な樹木として桜が600本、松が5本、櫨が60本とあり、桜の多さがわかります。春霞のかかる4月(陰暦3月)、御殿山は桜の花の香りに包まれ、眼下の浜辺での海草採りや潮干狩り、そして品川沖に浮かぶ白帆とその先に房総が見える景勝地として有名だったのです。 (「東海道品川宿のはなし 第7回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]
[江戸名所として品川で代表的なところが桜の名所・御殿山(ごてんやま)です。『江戸名所図会』では、宿並(しゅくなみ)のむこうに海を望み、武士や庶民の花見の様子を大きく見開きで描いています。その説明では、御殿山の名称は将軍の御殿があったことに由来しています。また土地の人は太田道灌(おおたどうかん)の父、太田資清(すけきよ)の(他の資料では、道灌の館ともあり)館があったと伝えているところです。御殿山は海を眺める丘山(おかやま)で、寛文(かんぶん)の頃(1661年から73年)に和州(わしゅう)(奈良県)吉野山(よしのやま)の桜を移植されたという。弥生の花見のころの情景がもっとも壮観であると記しています。また、寛永(かんえい)17年(1640年)9月16日の長門府中(ながとふちゅう)藩主、毛利秀元(ひでもと)が品川御殿で3代将軍徳川家光公に献茶(けんちゃ)した大茶会のことも記されています。このとき家光公は、東海寺の沢庵和尚(たくあんおしょう)を呼び、亭主である毛利秀元の二人に歌を詠ませています。品川の御殿は寛永12年(1635年)に建てられ、茶会や鷹狩りのほか幕府の重要な行事に利用されていました。その御殿も元禄(げんろく)15年(1702年)の大火(たいか)で焼失し、以後再建されることはありませんでした。
明治の地誌『風俗画報』では、明治以降の御殿山の変わりようをつぎのように記しています。御殿山は東海道線路の西側の高台です。嘉永(かえい)6年、海防のためこの土を削って品川砲台を築き、文久(ぶんきゅう)2年には外国(公使)館を設ける事になり、昔の姿を変えてしまった。さらに明治以降は私有地となり、今や(明治43年頃)原氏の邸(やしき)や新設の家屋が連なるようになったとあります。 (「江戸から明治の品川名所 第2回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]
御殿山庭園
[「東京マリオットホテル」の南側に位置する「御殿山庭園」は、江戸時代の桜の名所である御殿山の、昔ながらの面影を今に伝える日本庭園。約2000坪の広々とした敷地には、建築家・磯崎新氏が設計した茶室「有時庵(うじあん)」や東京マリオットホテルのチャペル「ザ・フォレスト」があり、御殿山の四季のイベントを彩ります。 (「御殿山庭園 | 御殿山トラストシティ」より)]
[南北にのびる品川宿の中央、目黒川の北に広がる丘陵。長禄(1457-1460)期には大田道灌の屋敷があった。寛永(1624-1644)の頃、この地に御殿が建てられたことが名前の由来。使用目的は、「将軍の狩猟の休息所」、「西国大名の参勤送迎」など諸説ある。寛文(1661-1673)の頃から吉野の桜が植えられ、桜の名所となったが、御殿は元禄15(1702)年2月の大火で焼失し、そのまま再建されなかった。幕末、御殿山は品川台場建設のために一部を削られ、また、文久2(1862)年には高杉晋作(新しいウィンドウが開きます)、久坂玄瑞、井上馨(新しいウィンドウが開きます)らにより、新築中の英国公使館が焼き打ちされ、全焼となる「御殿山焼き打ち事件」があった。
江戸名所図会を読む:
御殿山(本文)
御殿山看花(挿絵) (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「御殿山 (ごてんやま)」より)]
原美術館
[JR品川駅から車で5分ほどの住宅街のなかにある原美術館は、東京ガス会長、日本航空会長、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)総裁などを歴任した実業家・原邦造の邸宅であった。原邦造の養父の原六郎も実業家・美術品収集家として知られている。
原美術館が活用している邸宅は、原邦造の私邸として渡辺仁が設計し、昭和13年(1938年)竣工したものである。渡辺は上野の東京国立博物館本館や銀座の和光本館(旧服部時計店)の設計で知られる、当時の代表的な建築家である。
原美術館は、財団法人(現・公益財団法人)アルカンシェール美術財団を母体として昭和54年(1979年)に開館した。現代美術の最新の動きを紹介する意欲的な展覧会を随時行っており、「ハラ・アニュアル」展の開催などによって、有望な新人の紹介にも努めている。
館内各所に、ジャン=ピエール・レイノー、森村泰昌、宮島達男などのインスタレーション作品がみられるが、戦前の個人邸宅の雰囲気を残した建物と現代美術とが不思議に調和している。庭にも多田美波、関根伸夫などの作品が設置されている。 (wikipedia・原美術館より)]
「咲いた、咲いた、桜が咲いた :品川~御殿山 – フォートラベル」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図」(絵図左下に「御殿山」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 品川芝筋白金麻布. [1]」(コマ番号3/8・絵図左下に「御殿山」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号2/7・絵図左上に「御殿山」が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「御殿山看花」(4-15)
御殿山看花(拡大図)
「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「御殿山天王社」(6-68)、「御殿山解説・右ページ最終行から」(6-70)
狂歌江都名所図会 -御殿山(拡大図)
絵本江戸土産 – 御殿山の花盛(拡大図)
絵本江戸土産 – 御殿山の花盛其二(拡大図)
絵本江戸土産 – 再出御殿山當時の海(拡大図)
名所江戸百景[歌川(安藤)広重](品川御殿やま・wikipedia-photo)
歌川広重・江戸周辺十三景 御殿山之図(ボストン美術館)
富嶽三十六景(葛飾北斎) – 東海道品川御殿山ノ不二(とうかいどうしながわごてんやまのふじ)(wikipedia-photo)
「御殿山庭園 – Google Map 画像リンク」、「原美術館 – Google Map 画像リンク」
カメラ南方向が御殿山(現在は東京マリオットホテル)です。
東京マリオットホテル御殿山庭園のカメラです。
カメラ北北東方向が原美術館入口です。