徳島藩蜂須賀家中屋敷跡

マーカーは徳島藩蜂須賀家中屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP429・コマ番号258/553から徳島藩屋敷の変遷について記載されています。P430・コマ番号259/553「中屋敷 三田四国町」がこの地になります。

蜂須賀斉昌
[蜂須賀 斉昌(はちすか なりまさ)は、寛政7年7月10日(1795年8月24日)、阿波国徳島藩11代藩主蜂須賀治昭の次男として生まれる。兄弟たち同様に父より偏諱を受け、諱を初め昭昌(あきまさ)と名乗る。
文化6年(1809年)、第11代将軍徳川家斉から松平の名字を授与されるとともに、その偏諱を授かり斉昌に改名する。
文化10年(1813年)9月、父・治昭の隠居にともない跡を継ぐ。この頃になると徳島藩でも財政が悪化していたため、藩政改革が必要となっていた。しかも幕府から甲斐国の河川の築堤などを命じられ、新たに4万5000両も拠出するなど、領民に多大な負担をかけた。
子に恵まれなかったため、文政10年(1827年)閏6月3日に家斉の二十二男・斉裕を養嗣子に迎えた。やがてこの斉裕が将軍の実子ということで天保6年(1835年)12月に斉昌と同じ従四位上に叙せられると、養父としての立場がないと訴えて、天保10年(1839年)12月には異例の正四位上叙任が認められるが、その際に老中水野忠邦に対して礼銭名目に4000両もの賄賂を贈ったという噂が庶民にまで広まった(『藤岡屋日記』)。
このため、斉昌は財政再建のために徳島藩の特産品とも言えた煙草の専売に乗り出した。さらに、「煙草御口銀」という新たな税を課した。このため、領民は天保12年12月4日(1842年1月15日)、600人近くが伊予国今治藩に逃散し、その翌年には一揆山城谷一揆)も起こった。このとき、徳島藩は一揆の首謀者を処罰できなかったと言われており、領民の怒りが凄まじかったことがうかがえる。
天保14年(1843年)、家督を斉裕に譲り、その後の安政6年(1859年)9月13日、65歳で死去した。  (wikipedia・蜂須賀斉昌より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央右方向に松平阿波守(蜂須賀斉裕)中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/2・絵図四つ切右下に松平阿波守(蜂須賀斉裕)中屋敷が描かれています。)

カメラ位置は三田通り交番前交差点で、カメラ東方向道路右の一部を含む左側、道路東側奥右側が徳島藩蜂須賀家中屋敷跡になると思います。