マーカーは日出藩木下家下屋敷跡です。
関連リンク – 日出藩木下家上屋敷跡、日出藩木下家中屋敷跡(ジャマイカ大使館、スロヴァキア共和国大使館)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP915・コマ番号501/553から日出藩屋敷の変遷について記載されています。P916・コマ番号502/553「下屋敷 二本榎 芝区高輪南町」がこの地になります。
木下俊敦
[木下 俊敦(きのした としあつ)は、豊後国日出藩13代藩主。位階は正五位。官位は従五位下、大和守、左衛門佐。幼名は銀之助、通称は主計。
文化12年(1815年)12月9日、先代藩主で兄の俊良の死去により、その養嗣子となって跡を継いだ。この頃になると藩財政が窮乏化していたため、天保3年(1832年)から帆足万里を登用して藩政改革を行なったが失敗し、天保6年(1835年)から関勝之を登用して藩政改革を行なった。弘化4年(1847年)8月16日、病気を理由に次男の俊方に家督を譲って隠居した。
以後、廃藩まで3代続いた藩主はいずれも俊敦の子であるが、その全ての死後も俊敦は存命であり、明治3年(1870年)7月18日に明治天皇に拝謁し、明治19年(1886年)10月12日卒去。行年85歳 (wikipedia・木下俊敦より)]
木下俊方
[木下 俊方(きのした としかた)は、豊後国日出藩14代藩主。官位は従五位下、主計頭。幼名は豊丸、大作。
弘化3年(1846年)、将軍徳川家慶に拝謁する。弘化4年(1847年)8月16日、父の隠居により家督を継ぐ。しかし、生来から病弱だったため、藩政は隠居した父と家老たちによってなされた。同年12月、従五位下・主計頭に叙任する。嘉永7年(1854年)7月2日、江戸で死去し、跡を弟の俊程が継いだ。 (wikipedia・木下俊方より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切左上・薩州殿下屋敷中央右に木下主計頭(木下俊方)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図四つ切右下、松平大隅守下屋敷の中央右に井伊兵部少輔下屋敷が描かれています。この場所の上半分が、弘化三年・1846年以降分割され日出藩木下家下屋敷になると思われます。)
「東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切左下・高輪南町17番の上半分が日出藩木下家下屋敷跡とおもわれます。)
カメラ南方向はグランドプリンスホテル高輪で、この周辺が日出藩木下家下屋敷跡になると思われます。