明石藩松平(越前)家下屋敷跡

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関連リンク – 明石藩松平家上屋敷跡(国立劇場)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP812・コマ番号450/553から明石藩屋敷の変遷について記載されています。P815・コマ番号451/553「下屋敷 下高輪」がこの地になります。

松平斉宣
[松平 斉宣(まつだいら なりこと)は、11代将軍・徳川家斉の二十六男として誕生。12代将軍・徳川家慶の異母弟。家斉の末息子であり、甥にあたる13代将軍・徳川家定よりも年下である。同母兄に越前国福井藩主となった松平斉善武蔵国川越藩の嫡子である松平斉省がいる。
天保11年(1840年)、播磨明石藩主・松平斉韶の養嗣子となり家督を相続した。斉韶の嫡子である直憲(のち慶憲)を退けての強引な藩主就任であった。慶憲の生母・季遠姫はこれを嘆いて憤死したとも自殺したともいう。将軍の子が藩主になったことで、藩の石高は6万石から8万石に加増された。しかし、斉宣はさらに10万石への加増を老中らに求めたといわれ(御三家に挨拶に伺う際、10万石以下は表門から入れないとの理由で)、この要求によって8万石でありながら10万石格という複雑な事態が発生した。この10万石格という格式の維持と、将軍の子であるが故に莫大な支出を要し、明石藩の財政難にますます拍車がかかることとなった。
天保15年(1844年)、病気で重篤になり、嗣子がなかったため先代斉韶の嫡子・直憲が世嗣に立てられた。享年20。  (wikipedia・松平斉宣より)]

松平慶憲
[松平 慶憲(まつだいら よしのり)は、文政9年(1826年)、播磨国明石藩7代藩主・松平直韶の長男として江戸藩邸にて誕生。幼名は濤次郎。文政10年(1827年)、父・直韶は11代将軍・徳川家斉より自身の二十六男・周丸(ちかまる、後の8代・斉宣)を養嗣子として強要され、翌文政11年(1828年)に周丸が明石藩の世嗣となる。文政13年(1830年)、母・至誠院は実子の濤次郎が次期藩主となれず苦悶のうちに死去する(一説に自殺)。天保9年(1838年)、元服し、父・斉韶(直韶)より直憲(なおのり)と名付けられる。
弘化元年(1844年)4月、8代藩主・斉宣が病気重篤になり、急遽、世嗣となる。6月2日に斉宣が死去し、7月17日に家督を相続する。8月15日、12代将軍・徳川家慶に初めて御目見する。翌月、家慶の偏諱を授かり慶憲と改名する。従四位下に叙され、兵部大輔に任官する。
嘉永6年(1853年)、外国船の来航が頻繁になったため、明石海岸に12箇所の砲台を築く。ペリーが浦賀に来航し、明石藩は品川警備を命じられる。翌安政元年(1854年)、明石藩、神奈川の警備を担当する。安政3年(1856年)、左近衛権少将に任官する。文久元年(1861年)、従四位上に昇叙する。慶応2年(1866年)、第二次長州征討に参陣する。左近衛権中将に任官する。翌慶応3年(1867年)、長州征討より帰参。幕府より京都警備を命じられる。明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いには幕府方として参陣したが遅参し、大坂城にあった15代将軍・徳川慶喜の救出が出来ず明石に引き返す。明石城に官軍の山陽鎮撫使が進軍したため、本家筋の前福井藩松平春嶽の取り成しで恭順の意を表し、城を明け渡す。官軍に従軍し姫路まで進軍する。戊辰戦争に参戦し、藩兵を越後方面へ派兵する。この年、藩校・敬義館が開かれる。
明治2年(1869年)に隠居し、家督を長男・直致に譲る。  (wikipedia・松平慶憲より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(寛永三年・1850年)」(絵図中央上に松平兵部大輔(松平慶憲)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(絵図コマ番号2/2・絵図四つ切右下に松平兵部大輔(松平慶憲)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は野村證券 高輪研修センター前で、カメラ東北東方向野村證券 高輪研修センター一帯が明石藩松平(越前)家下屋敷跡と思われます。