マーカーは東海寺です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示で絵図四つ切右下・「御殿山」下に御膳所東海寺が描かれています。)
東海寺
[東海寺(とうかいじ)は、東京都品川区北品川三丁目にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は万松山。
徳川幕府3代将軍家光により創建され、元禄7年の全焼後にはすぐに5代将軍綱吉によって再建されるなど、幕府による手厚い保護を受けていた。500石の朱印領と47,666坪に及ぶ広大な寺域を有していた。
●寛永16年(1639年) 徳川家光が但馬国出石の沢庵宗彭を招聘して創建。沢庵を住職とする。
●寛永21年(1644年) 土岐頼行が出羽国上山の春雨庵を模した塔中(春雨寺)を沢庵宗彭のために建立する。
●元禄7年(1694年) 品川宿から出火した火災で全焼。すぐに徳川綱吉と生母桂昌院によって再建され、大伽藍となる。
●明治6年(1873年) 寺領が新政府に接収され、衰退。現在の寺域は旧塔頭の玄性院(元・臨川院)にあたる。
●平成24年(2012年)10月 境内の原爆犠牲者慰霊碑が葛飾区の青戸平和公園へ移設される。
品川神社 – 東海寺が創建された時に鎮守とされた。品川神社の隣接地であるもと東海寺内の高源院の墓地であった場所に、板垣退助、板垣絹子、板垣清子、乾信武らの墓があり品川区の史跡に指定されているが、品川神社を通ってしか墓地には入れない。
東海寺通用門・wikipedia-photo
鐘楼(梵鐘 – 元禄5年(1693年))・wikipedia-photo
仏殿「世尊殿」(昭和5年建設)・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、東海寺 (品川区)の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・東海寺 (品川区)より)]
東海寺梵鐘
[・総高198㎝、口径106㎝で、元禄5(1692)の鋳造。当時の住職 天倫宗忽(てんりんそうこつ 1627~97)の撰になる「武州荏原郡万松山東海寺鐘銘并序」が刻まれ、五代将軍綱吉の母、桂昌院(1627~1705)が、将軍家光の冥福を祈るために寄進したもの。製作者は椎名伊予守良寛(幕府御用鋳物師)
<品川区指定文化財・工芸品第1号>
江戸幕府の御用鋳物師の椎名良寛が元禄5年(1692)に鋳造した高さ1m98㎝、口径1m6㎝の梵鐘。将軍徳川家光の側室桂昌院が寄進し、東海寺の住職天倫宗忽(1626~97)の撰文が刻まれている。 (「しながわ観光協会(東京都品川区) – 東海寺梵鐘」より)]
「東海道品川宿を歩く~その十五:東海寺~その一 – 東京 ...」
東海寺資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図」(絵図左下方向・御殿山左方向に東海寺が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 品川芝筋白金麻布. [1]」(コマ番号3/8・絵図左下「御殿山」の左に「東海寺」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号2/7・絵図中央左に「東海寺」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御放鷹御成御膳所圖」(コマ番号25/99・東海寺御膳場絵図)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「萬松山東海禅寺解説-1」(4-5)、「牛頭天王社東海禅寺・右ページが萬松山東海禅寺解説-2」(4-6)、「其二」(4-7)、「其三」(4-8)、「其四・左ページが萬松山東海禅寺解説-3」(4-9)、「萬松山東海禅寺解説-4」(4-10)、「萬松山東海禅寺解説-5」(4-11)、「少林院縣居大人墓林泉南郭先生墓・解説は左ページ」(4-12)
牛頭天王社東海禅寺(拡大図)
其二(拡大図)
[図会右ページに北の天王社(品川神社)が描かれています。]
其三「拡大図)
其四(拡大図)
少林院縣居大人墓林泉南郭先生墓(拡大図)
[縣居大人は賀茂真淵、南郭先生は荻生徂徠の高弟として知られる服部南郭のこと。]
「東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「東海寺林泉看楓」(5-9)
東海寺林泉看楓(拡大図)
「江戸遊覧花暦. 巻之1-4 / 岡山鳥 編輯 ; [長谷川雪旦] [画]」・「東海寺楓樹」(3-14)、「萬松山東海寺解説-1・左ページ2行目より」(3-13)、「萬松山東海寺解説-1・左ページ6行目まで」(3-15)
東海寺楓樹(拡大図)
カメラ南方向が東海寺表参道で、参道奥に山門が見えます。
カメラ東方向が東海寺通用門で、奥に鐘楼が見えます。
東海寺本堂前のカメラで、カメラ南南西方向に鐘楼があります。
鐘楼前のカメラです。