マーカーはカメラ位置です。
関連リンク – 松江藩松平家上屋敷跡(衆・参議院議長公邸)、松江藩松平(越前)家中屋敷跡、松江藩松平(越前)家下屋敷(元百人組同心大縄地)・薬罐坂、松江藩松平(越前)家抱屋敷跡(仙気稲荷神社)
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示で絵図四つ切右下・「御殿山」の左上に松平出羽守が描かれています。)
松江藩松平家下屋敷
[出雲国 (今の島根県)松江藩松平家の江戸下屋敷の一つに「大崎屋敷」もしくは「大崎苑(園)」と呼ばれた屋敷が、現在の北品川五丁目付近にありました。松江藩松平家は徳川家康の次男結城秀康 を祖とする名門の家門大名 で、この大崎屋敷を手に入れたのは、松江藩七代藩主、松平治郷 (はるさと)で、隠居後は号を「不昧」と称しました。松平治郷は、六代藩主松平宗衍 (むねのぶ)の次男として宝暦元年(1751)江戸に生まれ、兄の夭折によって世継となり、明和4年(1767)、17歳のとき父の隠居によって松江藩18万6千石の藩主となりました。治郷が家督を継いだころの松江藩の財政は、うち続く天災・飢饉のため破綻していました。治郷は、文化3年(1806)に56歳で隠居するまでの40年余り、家老の朝日丹波を中心に藩政改革を断行し、産業振興策に努め、藩財政を建て直すとともに、美術工芸の奨励・育成に努めたのです。治郷は、江戸時代の代表的な茶人の一人で、茶の湯に親しむようになったのは10代に入った頃で、まず遠州流 (えんしゅうりゅう)や三斎流 (さんさいりゅう)を学びました。さらに藩主となった翌年18歳のとき石州流 (せきしゅうりゅう)を学び、やがて不昧流あるいは雲州流 (うんしゅうりゅう)とも称される大名茶を完成しました。不昧の号は、若くして禅の道に入り、明和6年(1769)、麻布天真寺の大巓和尚 (だいてんおしょう)から「不昧」という号を授けられたことに由来します。その後も大徳寺の無学和尚など多くの禅僧との親交を結ぶとともに、茶禅一味を追及し、生涯にわたって禅学の研鑽を続けました。藩財政が好転すると、治郷は茶道具の蒐集を始めています。雲州蔵帳品 (うんしゅうくらちょうしな)と称される墨跡・名器類は、治郷が生涯をかけて蒐集し愛玩したもので、現在の所有者は変わっていますが、それらの多くは国宝や重要文化財に指定されています。さて、治郷が大崎下屋敷を手に入れた経過は複雑で、まず、享和3年(1803)に、戸越村の拝領下屋敷3,525坪を大崎の出羽国(山形県)上山藩の拝領下屋敷8,437坪余との相対替(交換)に始まり、その屋敷周辺の武家地を「4者5ヵ所の相対替」など複雑な方法で囲い込みました。その過程では、建前上はあってはならない金銭の授受も行われたのです。このようにして松江藩松平家大崎下屋敷約2万坪は完成しました。さらに、この大崎屋敷の普請には、文化元年から4年までに、2万3,341両もの大金を掛けたという記録が残っています。文化3年(1806)に隠居した不昧は、大崎屋敷に住み名器蒐集とお茶三昧の余生を送りました。また、この屋敷地には地形を生かした庭園とともに趣向を凝らした茶室をつくり、11もの茶室が散在する一大茶苑となりました。なかでも「独楽庵 (どくらくあん)」は、千利休が宇治田原に造った茶室で、大坂にあったものを不昧が大崎屋敷に移築させたものでした。茶道三昧の晩年を送った不昧でしたが、文政元年(1818)、68歳で大崎屋敷にて亡くなりました。不昧亡き後、大崎屋敷の拝領部分約1万4,900坪は、ペリー来航後の諸大名による海岸警護「御固 (おかため)」の一環として嘉永6年(1854)、鳥取藩池田家の所有になり、多くの茶室は取り払われてしまいました。 (「品川区ホームページ – 品川の大名屋敷 第4回」より)]
松江藩松平家下屋敷資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図」(絵図左中程に「松平出羽守下屋敷」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号3/7・絵図中央右方向に「松平出羽守」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下」(コマ番号4/5・絵図中央左方向に「松平出羽守下屋敷」、「松平出羽守下屋敷母抱屋敷」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 雲州不昧公大崎別業真景」、「国立国会図書館デジタルコレクション – 不昧侯大崎別業図并亭榭明細図」
カメラ位置付近に松江藩松平家下屋敷があったようです。
越前松平家
[越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の一支系で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という単語は、徳川家康の次男徳川秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。このうち福井藩と津山藩の幕末の藩主も御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた(将軍家からの養子を迎えたため)。
越前松平家の分枝
越前松平家は分家が多く、越前松平家の大名は秀康の諸子から兄弟順に津山松平家、福井松平家、松江松平家、前橋松平家、明石松平家の五家が分かれ、さらに福井藩から糸魚川藩、松江藩から広瀬藩・母里藩が分かれ、合計で八家を数える。これらは後世便宜上、各家の主な領地所在地の名称で分類され、ここでもその手法を使用するが、越前に残留した一統をも含めてこれらは全て越前松平家である。 (wikipedia・越前松平家より)]
松江藩松平家
[松江藩(まつえはん)は出雲一国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配した。
寛永15年(1638年)松平直政が18万6千石で信濃国松本藩より転封。以後、越前家の領有するところとなった。また、松平氏は江戸幕府より隠岐1万4千石を預かり、代理統治することとなった。
藩の財政は年貢米による収入のみでは立ち行かず入封当初より苦しかった。このため早くから専売制を敷き、木蝋・朝鮮人参・木綿そして鉄の生産を統制した。特に鉄は古くからたたら製鉄、たたら吹き(タタラ)により砂鉄から鉄を生産することが盛んであった。享保11年(1726年)5代・松平宣維は田部(たなぶ)・桜井・絲原(いとはら)の大山林地主3家を中心に組合による独占制度での製鉄をおこなった。7代・松平治郷(号・不昧(ふまい))は特に有名な藩主である。先代・松平宗衍の代より藩政改革に着手していた家老・朝日茂保(通称・朝日丹波)を引き続き起用し、財政再建を推進した。このため寛政年間(1789年 – 1801年)には8万両もの蓄財が出来るまでになった。治郷(不昧)は藩財政の好転を期に、かねてからの趣味であった茶道にのめりこみ不昧流を創設した。名器のコレクションも行っているが、そのカタログである「雲州蔵帳」、著書「古今名物類聚」・「瀬戸陶器濫觴(上中下三巻)」は茶道研究の重要な資料の一つとなっている。また、松江の町はこの時より京都・奈良・金沢と並び和菓子の一大名所となった。しかしながら彼の文化的影響は茶・和菓子のみに留まらず、松江及び出雲地方では今日までも彼が好んだものは「不昧公好み」と呼ばれ(庭園・工芸品・ぼてぼて茶などの地元名物等がある)、名が一つのブランドと化しているほどである。しかしながら反面、膨大な散財から再び藩財政を傾けることとなった。幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で江戸幕府方・明治新政府方どっちつかずであったため新政府の不信を買った。結局は新政府方に恭順することとなり、戊辰戦争に参戦。慶応4年(1868年)京都の守備についた。同年には隠岐騒動が起こり、統治していた松江藩代官が島民の蜂起により追放されるという事態となった。江戸時代中期から頻繁に起こっていた隠岐での飢饉への対処不足、外国船の来航・上陸に対する無為無策ぶりなど島民の不満が高まり遂には武装蜂起となって表れた。代官追放後、島では自治政府が開かれ、一旦は松江藩に奪い返されたものの鳥取藩・新政府の介入により再び自治政府が開かれ、後、鳥取藩の預かりとなった。明治2年2月25日(1869年4月6日)には廃藩置県よりも2年早く隠岐県が誕生している。松江藩は明治4年(1871年)の廃藩置県により松江県となり、後、島根県に編入された。支藩として、広瀬藩・母里藩、また一時存在した松江新田藩がある。松平氏は明治17年(1884年)伯爵となり華族に列した。 (wikipedia・松江藩より)]