水野監物邸跡(岡崎藩・山形藩水野家中屋敷跡)

マーカーは水野監物邸跡の説明板です。

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水野監物邸跡
[水野監物邸跡(みずのけんもつ てい あと)は、東京都港区5-20-20にある三河岡崎藩主・水野家の中屋敷跡である。現在は灯籠のみが残っている。
水野監物(忠之)が藩主の時、この屋敷には赤穂事件吉良上野介(義央)の屋敷に討ち入った赤穂浪士9名が幕府の沙汰を待つためにお預けになり、元禄16年(1703年)2月4日同屋敷で切腹した。現在の慶應仲通りが三田二丁目から田町側に向かい、商店街の終点で東南に折れる場所の正面の医院の前に位置する。実際の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた場所にあった。
預けられた赤穂浪士9名
1.間十次郎(光興)
2.奥田貞右衛門(行高)
3.矢頭教兼矢頭右衛門七(教兼)
4.村松高直村松三太夫(高直)
5.間瀬正辰間瀬孫九郎(正辰)
6.茅野和助(常成)
7.横川宗利横川勘平(宗利)
8.三村次郎左衛門(包常)
9.神崎則休神崎与五郎(則休)
説明板・wikipedia-photowikipedia-photo、石灯籠・wikipedia-photo  (wikipedia・水野監物邸跡より)]

[東京都指定旧跡
 水野監物邸跡
     昭和18年(1943)3月16日指定 

 この地は赤穂事件で、吉良邸討入りに加わった大石内蔵助良雄ら47人のうちの9人が預けられた三河岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部である。水野家は、のちに天保の改革を主導する水野忠邦を輩出した譜代大名の名門の家柄で、水野監物忠之(1669~1731)は、第4代藩主である。元禄14年(1701)3月浅野内匠頭長矩吉良上野介義央に対する殿中刃傷事件の折りには、幕命により鉄砲洲の赤穂藩邸(中央区明石町聖路加国際病院)に赴き混乱を防いだ。
 元禄15年(1702)12月15日元赤穂藩士たちのお預けが決まると、直ちに江戸詰藩士150余人と留守居小川九郎右衛門を請取人として千石伯耆守邸(港区虎ノ門2-8)に遣わした。間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、増せ孫九郎正辰、茅野和助常成、横川甚平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎與五郎則休の9人は、この屋敷へ収容された。翌元禄16年(1703)2月4日幕府の裁きにより9人は、この屋敷で自刃し、武士の本懐を遂げた。
 水野家は細川家とともに元赤穂藩士の取扱は丁重で世評もよく、「細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる」という落首がその状況をよく伝えている。
 平成13年(2001)3月31日設置 東京都教育委員会]

水野監物邸跡資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 元禄江戸大繪圖(出版年月日・[宝永(1704年-1711年)年間])」[コマ番号3/5・絵図四つ切左下に水野監物(水野忠之)上屋敷が描かれています。]

水野忠之は享保2年(1717年)9月27日、老中となり西丸下に老中屋敷を拝領します。
国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一」[コマ番号92/130・左ページ「正徳三(1713)年之形」に「水野監物」と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図[嘉永三(1850)年]」[絵図右下・水野大監物(水野忠精)上屋敷が水野監物邸です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図[天保十三(1842)年]」[コマ番号4/5・絵図上右方向、「水野越前守」(水野忠邦)が水野監物邸です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [2]拾六上[弘化三(1846)年]」[コマ番号2/2・絵図中央付近に水野金五郎(水野忠精)と記述されています。水野忠精は水野忠邦の長男で、遠江浜松藩第2代藩主、出羽山形藩初代藩主。]

水野監物邸跡 – Google Map 画像リンク

東京都教育委員会水野監物邸跡の案内板前のカメラです。

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