沼津藩水野家高輪下屋敷跡

マーカーは沼津藩水野家下屋敷跡です。

関連リンク – 沼津藩水野家上屋敷跡(中央合同庁舎第5号館・厚生労働省)水野忠成上屋敷跡沼津藩水野家浜町下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP845・コマ番号466/553から菊間藩(沼津藩)屋敷の変遷について記載されています。P855・コマ番号471/553「下屋敷 芝二本榎」がこの地になります。

水野忠寛
[水野 忠寛(みずの ただひろ)は、文化4年(1807年)11月4日、駿河国沼津藩水野家分家の旗本(浜町水野家)である水野忠紹(2代藩主水野忠成の次男)の子として生まれる。文化12年(1815年)11月4日に家督を継いで旗本となる。天保12年(1841年)11月11日から江戸城西の丸に出仕し、天保14年(1843年)12月16日に従四位下、河内守に叙任する。弘化3年(1846年)8月12日に小姓頭取に任じられた。
安政5年(1858年)に本家の第5代沼津藩主である水野忠良が死去したため、その家督を継いだ。折しも幕府では第13代将軍・徳川家定の後継者をめぐって井伊直弼徳川斉昭が対立していたが(将軍継嗣問題)、忠寛は直弼に協力して徳川慶福(家茂)の擁立に貢献した。そのため、安政5年(1858年)10月9日には奏者番に任じられ、10月26日に出羽守に転任となった。安政6年(1859年)3月9日には側用人に任じられ、4月には下田の警備を免除されるなど、直弼から並々ならぬ恩恵を受けている。
しかし桜田門外の変で直弼が暗殺され、さらに直弼によって追放されていた一橋派が幕政に復帰すると、直弼与党であるとして文久2年(1862年)5月29日、全ての役職を辞職に追い込まれ、閏8月20日には養子の忠誠に家督を譲って隠居することとなった。  (wikipedia・水野忠寛より)]

水野忠誠
[水野 忠寛(みずの ただひろ)は、天保5年(1834年)7月25日生まれ。幼名は惣兵衛。三河国岡崎藩本多忠考の四男。沼津藩主水野忠寛の養子となり、忠寛の隠居にともない家督を相続し、老中に進む。幕府は第二次長州征討の総大将に尾張藩徳川慶勝を任命したが、慶勝が固辞したため、忠誠が総大将に任命された。しかし、征討の準備中であった慶応2年(1866年)9月14日、忠誠は沼津城中で急死した(表向きには10月28日死去とされた)。跡を養子の忠敬が継いだ。  (wikipedia・水野忠誠より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(寛永三年・1850年)」(絵図中央上に水野惣兵エ(水野忠良)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(絵図コマ番号2/2・絵図四つ切右下に水野惣兵衛(水野忠良)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は桂坂上で、カメラ東北東方向が沼津藩水野家下屋敷跡になると思います。