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聖坂
[聖坂(ひじりざか)は東京都港区三田四丁目にある坂。田町側から上ると内陸側に、三田中学校、クウェート大使館、 阿含宗関東別院が存在し、同方角から潮見坂、幽霊坂から注ぎ込む形で交差し、海側に済海寺、亀塚公園、御田八幡神社が存在する。そのまま進むと伊皿子坂と魚籃坂からなる道路と交差して二本榎通りと名称を変える。
高野聖が開いた古代中世の通行路で、その宿所も同所に存在したためこの名称が付けられたとされる。「竹芝の坂」もしくは「竹芝坂」とも呼ばれた。
本道は古奥州街道にあたり、江戸幕府が開府して東海道が開かれるまで、東国と西国を結ぶ主要道路であった。江戸時代まで坂は斜面ではなく緩やかな階段状を成していた。この階段の存在は『江戸名所図会』によっても確認することが可能である。
坂上より・wikipedia-photo
坂下より・wikipedia-photo
道標・wikipedia-photo
(wikipedia・聖坂より)]
済海寺
[済海寺(さいかいじ)は、東京都港区三田四丁目に存在する浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。江戸三十三箇所観音霊場の第26番札所である。札所本尊は亀塚正観世音菩薩。正式には周光山長寿院済海寺(しゅうこうざん ちょうじゅいん さいかいじ)という。
亀塚公園の隣に位置している。更級日記に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語である竹芝伝説の「竹芝寺」の跡地に位置する。
1621年(元和7年)牧野忠成と念無上人によって創設。越後国長岡藩藩主家牧野氏や伊予国松山藩主家松平氏及びその定府家中が江戸での菩提寺として使用。1859年(安政6年)にフランス総領事館となり、2年後には公使館となって1874年(明治7年)まで続いた。現在は最初のフランス公使宿館跡として碑が境内に残されている。1982年に済海寺にある旧越後長岡藩主家牧野家墓所の悠久山への改葬が行われるが、鈴木公雄を団長とする済海寺遺跡調査団による緊急遺骨調査が行われた。
済海寺山門・wikipedia-photo
「都旧跡・最初のフランス公使宿館跡」・wikipedia-photo
(wikipedia・済海寺より)]
[亀山碑
≪案内板≫港区指定有形文化財 歴史資料 亀山碑 亀山碑は、ここ亀塚の頂部にある巾、2.2m、高さ1.4mの石碑で、上野国沼田城主土岐頼熈(ときよりおき)によって寛延3年(1750)に建てられたものです。土岐家は、明暦3年(1657)にこの地を下屋敷として拝領しました。詩文にひいでた大名と言われた頼熈は、この地が『更級日記』の竹芝寺伝説の故地であることや、塚の頂部に酒壺があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壺の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるために、この碑を建立したと考えられています。大名が邸内に建立した石碑として貴重な物です。
平成26年3月10日 港区教育委員会 (「竹芝寺は現在の港区三田の済海寺か?」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図」[絵図中央右上・土岐美濃守(沼田藩)下屋敷右に聖坂、済海寺が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図」(コマ番号4/5・絵図中央寺町右「松平紀伊守」左に「聖坂」、下に「済海寺」が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「聖坂済海寺功運寺」(3-38)、「龍谷山功運寺、周光山済海寺、竹芝寺奮址解説・右ページ左から4行目より」(3-39)、「竹芝寺奮址解説-2」(3-40)、「竹芝寺古事」(3-41)、「竹芝寺奮址解説-3、亀塚解説・左ページ左から2行目まで」(3-42)
聖坂済海寺功運寺(拡大図)
[絵図右ページ聖坂上に済海寺が描かれています、道路下の功運寺は現在、中野区に移転しています。]
竹芝寺古事(拡大図)
狂歌江都名所図会 – 竹女の古事 徂徠の墓(拡大図)
[図会左上の徂徠の墓は長松寺の場所になります。]
「聖坂 – Google Map 画像リンク」、「済海寺 – Google Map 画像リンク」、「フランス領事館跡碑 – Google Map 画像リンク」
カメラ南東方向が済海寺山門で、カメラ北北東方向が聖坂です。
聖坂上・カメラ北東方向が聖坂で、坂左・電柱前に標柱があります。
カメラ南西方向が聖坂で、坂左に標柱があります。