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関連リンク – 薩摩藩装束屋敷跡(元鹿鳴館)、西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑、薩摩藩島津家下屋敷跡(常陸宮邸)、常盤松の碑、薩摩藩島津家下屋敷跡(八芳園)、薩摩藩島津家抱屋敷跡(東大井遊歩道)、柘榴坂(薩摩藩島津家・久留米藩有馬家下屋敷跡)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP526・コマ番号307/553から鹿児島藩屋敷の変遷について記載されています。「居屋敷 芝新馬場」が上屋敷になり、「上屋敷 外櫻田幸橋内」が薩摩藩装束屋敷になります。上屋敷、居屋敷について下記通り記述されています。
『鹿児島藩 公爵島津家 旧封七拾七萬八百石
一、上屋敷 外櫻田幸橋内
拝領慶長十五(1610)年九月 坪数六千八百五拾八坪
島津家記録、本邸ハ慶長十五年九月大将軍徳川秀頼ヨリ島津陸奥守家久ニ賜フ所ナリ。
藩主ハ常ニ居住スト雖、公邊ニ對シテ本邸ヲ上屋敷ト称セシナリ。
一、居屋敷 芝新馬場
拝領年月日不詳 添地拝領享保十四(1729)年七月、宝暦十二(1762)年四月 坪数貳萬千七百八拾五坪餘
島津家記録、本邸ハ公邊ニ對シテハ居屋敷ト相唱候得共、御内輪ニテハ上屋敷ト唱ヘ候 以下略』
表向きには、外櫻田幸橋内・薩摩藩装束屋敷を上屋敷と称し、実質は「居屋敷 芝新馬場」を上屋敷としています。]
薩摩藩上屋敷跡
[NEC本社ビルの脇に薩摩屋敷跡の碑があります。屋敷は慶応三年(1867)の焼討事件でほぼ全焼し、跡地は、「薩摩ッ原」と呼ばれるようになったといいます。江戸薩摩藩邸の焼討事件は、西郷隆盛の命を受けた、益満休之助、伊牟田尚平らが浪士に集合をかけ、乱暴行為を繰り返し行っていた。十二月に入ると、挑発行為はますますひどくなり、新徴組の詰め所に銃が打ち込まれる事件が発生した。これを受けた庄内藩、新徴組および幕府側の諸藩兵は三田の薩摩藩邸を包囲し、浪士の引き渡しを申し入れたが、その時、薩摩藩の留守居役篠崎彦十郎を血祭りにあげたことから、銃撃戦が行われ49人が戦闘で命を落とし、113名が捕縛された事件である。(「芝の歴史散歩」より)]
薩摩藩上屋敷跡資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図[嘉永三(1850)年]」(絵図右中央付近に松平薩摩守上屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図」(コマ番号2/5・絵図四つ切右下に「松平大隅守」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上」(絵図四つ切右下に「松平大隅守」と描かれています。)
「薩摩藩三田藩邸跡 – Google Map 画像リンク」、「芝さつまの道 – Google Map 画像リンク」
カメラ南方向植え込みの中に碑があります。
薩摩藩屋敷跡碑(Google Map 画像)
カメラ位置は再開発で整備された「芝さつまの道」で、道沿いには薩摩藩邸の解説モニュメントが数多くある。カメラ東方向には薩摩藩邸の屋敷図等が展示されている。
「芝さつまの道」(Google Map 画像)