マーカーは大門です。
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増上寺、増上寺(熊野神社)、増上寺(め組供養碑)、増上寺(鐘楼堂)、増上寺圓光大師堂(旧景光殿・旧広書院)表門、増上寺(徳川将軍家霊廟)、増上寺・御成門、有章院霊廟 二天門、台徳院霊廟惣門、芝東照宮
大門
[現在、駅名にもなっている大門は、増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来になっている門です。慶長3年(1598)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康により寺の表門として譲られたものでありました。その大門は大正12年(1923)の関東大震災により倒壊しかかったため、両国・回向院に移築されましたが空襲により焼失してしまいました。現在の大門は国道の整備のため、旧大門より大きく、コンクリート製に作り直されたものです。 (「増上寺の歴史散歩」より)]
増上寺大門(正面)・wikipedia-photo
増上寺大門(裏側)・wikipedia-photo
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[芝地区を代表する増上寺。江戸時代、その総門である「大門」の前には、排水溝の役割を担った「桜川」という水路が流れていました。この水路は、付近の町屋から排出される「下水」の落とし口として使われ、南にある将監橋に向かい、「金杉川」(古川)に流入しました。当時は下水といっても、し尿は別ですし、家庭から出る排水もそれほど汚れていませんでしたから、直接川に流しても問題はなかったのでしょう。
「七軒町」「浜松町」「神明町」「神明門前」の4町(現在の芝大門1丁目)では、「下水組合」を設立してこの下水を管理していました。
寛政5年(1793)4月に、幕府による工事で大門通りに土手が築かれ、下水も拡幅されると、それまでは普請奉行(土木工事を担当していた役所)が行っていた下水の修理や浚い(掃除)も、この組合で行うよう申し渡されました。以来、4町の下水組合により大切に保全・管理されたこの下水は、当時の人々の暮らしを支えた重要な施設だったことでしょう。
都市化が進み、その機能が必要なくなった桜川は暗渠(地下水路)となり、現在のまちの姿になっています。今でも将監橋の下では、暗渠となった桜川が古川に注ぎ込んでいるそうです。 (「大門 – 港区」より)]
「資料館だより 第79号 – 港区立図書館 – 大 門 受け継がれる建造物」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図」(絵図中央下方向・増上寺右方向に表門が描かれ、表門前南北に桜川が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「増上寺-2」(3-4)
増上寺-2(拡大図)
[図会右ページ下に大門が描かれています。]
「増上寺 大門(旧総門) – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向が大門です。