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川越藩
[川越藩(かわごえはん)は、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した藩。武蔵国一の大藩。藩庁は川越城に置かれた。
武蔵国の中央に位置し、古来から軍事上の要所であったため、上杉持朝の命で家宰の太田道真・太田道灌父子によって城が築かれると、上杉氏、後北条氏の武蔵国支配の最重要拠点であり続けた。江戸時代になると大老・老中など幕政の重職についた有力譜代大名や、親藩の越前松平家などが入封した。幕府の老中職に就いた大名の数では徳川諸藩中、佐倉藩に次いで最多である。城下町の川越は江戸と新河岸川の舟運や川越街道で結ばれ、江戸の北の守りとして発展、「小江戸」と称される程であった。
寛永16年(1639年)、松平信綱(大河内松平家)が島原の乱鎮圧の功により、武蔵国忍藩より3万石加増された6万石で入封した。正保4年(1647年)加増を受けて7万5千石となった。信綱は才知に長け、徳川家光付小姓から老中首座となり、家光や第4代将軍・家綱をよく補佐し、官職名の伊豆守から「知恵伊豆」と呼ばれた。藩政では川越城の大改築(5郭・3櫓・8門を新造、城は倍の大きさになった)、城下の地割(侍屋敷・町屋敷・社寺地、足軽・中間は組屋敷。十ヵ町四門前町)、川越藩士安松金右衛門による玉川上水・野火止用水の開削など、農政を振興し藩政の基礎を固めた。新河岸川には九十九曲りという蛇行流が造成され、川越五河岸が設けられ、江戸と川越夜舟が行き来した。輝綱は父・信綱の遺訓を守り、野火止に平林寺を移し野火止の開発を続けた。江戸とを結ぶ川越街道の改修整備が進んだのも輝綱の代である。元禄7年(1694年)、第3代藩主・信輝は下総国古河藩に転封された。
代わって元禄7年(1694年)に、柳沢吉保が7万2千石で入封した。吉保は第5代将軍・綱吉の寵愛を受け、2度の加増により石高は11万2千石に達した。綱吉の側用人(大老格)として幕政に忙殺されたが、藩政でも三富新田の開発を行うなどの手腕を発揮している。吉保は儒学者の荻生徂徠を召抱え、徂徠は川越城下の宮下町に住み、三富新田の開発などは北宋の王安石の開拓に倣った徂徠の建議によるものである。宝永元年(1704年)、甲斐国甲府藩に15万石で移封となった。
代わって甲斐国谷村藩より、秋元喬知が5万石で入封しすぐに6万石にされた。喬知は元禄文治の老中として有名であるが、正徳元年(1711年)の入封時には甲斐より職人を帯同し、川越領内で柿や養魚などの農間余業や絹織物など殖産政策を進めた。喬知の治世は高山繁文など有能な家老が出た。第4代藩主・凉朝の時代の寛保2年(1742年)8月には、大豪雨により荒川・入間川・綾瀬川などが氾濫し、武蔵国一帯は惨状を極めた(寛保二年江戸洪水)。凉朝は農民救済政策を矢継ぎ早に実施した。凉朝は平賀源内を藩に招いて、奥秩父・大滝の中津峡で鉱山を開発した。凉朝が老中を辞した後、中山道伝馬騒動が起こり、川越藩領でも騒然とした。田沼意次の強権政治に反対したため凉朝は明和4年(1767年)、出羽国山形藩に転封となった。凉朝は江戸屋敷を動かず、嫡男の永朝が山形藩へ赴いた。
代わって上野国前橋藩主・松平朝矩15万石の所領に川越は編入され、川越藩は消滅した。家康の次男結城秀康を祖とする越前松平家統治の時代となった。しかし、前橋城が利根川の浸食を受けて大打撃を受けたことからこれを廃城し、居城を川越城に移したために、これ以降前橋藩は川越藩となった。朝矩は川越藩の飛び地となった前橋に川越藩の陣屋を置き、前橋分領7万5千石を留守居役を据えて支配した(前橋陣屋)。
越前松平家の中でも、秀康の五男松平直基を祖とする家系は、代々姫路藩、白河藩などへ転封を繰り返したことで借財が多く、朝矩も姫路時代より財政的に窮迫していた。川越で代を重ねても改善されず、第4代藩主・斉典は転封を目論み、第11代将軍・徳川家斉の子・斉省を養子とし、裕福な出羽国庄内藩への移封の内示を受けた。庄内藩領民の猛烈な反対運動を受け、移封は沙汰止みとなったが(三方領地替え)、引き替えに2万石の加増を受けて17万石となった。斉典は、豪商横田五郎兵衛を勘定奉行格に任命して藩財政の改革を進め、藩士安井政章に命じて川島に鳥羽井堤を築造し、水田を開発した。藩校「博喩堂」を開設し、藩儒・保岡嶺南に命じて川越版『日本外史』を刊行させ、盲目の医師で国学者の沼田順義を藩に招いた。西大手門に目安箱を置いて衆庶の声を藩政に取り入れるなど、「好学の名君」と謳われた。川越城本丸御殿建築も斉典の業績である。
第7代藩主・直克は将軍徳川家茂の上洛の際に江戸警衛の任に当たり、また西洋砲術の高島流の採用や農民出身の藩士・大川平兵衛が指導していた神道無念流の重用による剣術の他流試合の活性化などの軍制改革を実施した。自身も上洛、孝明天皇より少将に任官された。しかし横浜鎖港問題が国内政局の焦点となっていた時に、直克は幕府の政事総裁職(大老格)という要職にあり、家茂の方針と合わず、また天狗党の乱の鎮圧方針で強硬派の水戸藩と激しく対立、結局川越藩は兵を動かさず、直克は政事総裁職を罷免された。さらに幕末の慶応2年(1866年)武州一揆が起こり、直克は藩米千俵を城下に放出するも川越藩領の諸村では恩恵に与れず打毀したため、直克は銃隊で鎮圧、一揆の城下への侵入を阻止した。
川越藩は開港をめぐる世情に最も通じていた藩の一つであり、100年にわたり川越藩領の上野国前橋(群馬県前橋市)の主力産品であった生糸は川越藩士速水堅曹、深沢雄象らによって品質向上と増産が図られ、藩の専売品として横浜の港から川越藩御用商人の吉田幸兵衛らによって輸出され、莫大な利益を生んだ。こうして越前松平家の長い念願が叶って慶応3年(1867年)、前橋で城の新築がなり、直克は川越藩時代の石高をもって居城を前橋城に移転した。これ以降は前橋藩と呼ばれる。 (wikipedia・川越藩より)]
大倉集古館
[大倉集古館(おおくらしゅうこかん)は、東京都港区虎ノ門二丁目にある、日本・東洋の古美術が中心の私立美術館である。運営は、公益財団法人大倉文化財団。明治から大正期にかけて大きな財をなした実業家大倉喜八郎が、長年に亘って収集した古美術・典籍類を収蔵・展示するため、1917年(大正6年)に財団法人大倉集古館として大倉邸の敷地の一角に開館したもので、日本最初の私立美術館である。開館からまもない1923年(大正12年)、関東大震災によって当時の展示館と一部の展示品を失い、一時休館を余儀なくされた。1928年(昭和2年)、建築家伊東忠太の設計による耐震耐火の中国風の展示館が完成し、翌年再開館した。喜八郎の長男・大倉喜七郎も近代日本画などの収集品を館に寄贈している。大倉邸跡に喜七郎により建設されたホテルオークラ東京本館と隣接している。
大倉集古館・wikipedia-photo、普賢菩薩像(国宝)・wikipedia-photo、随身庭騎絵巻(部分)・wikipedia-photo (wikipedia-大倉集古館より)]
川越藩松平家上屋敷資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション - 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元年(1831年)調」(絵図四つ切右上・松平大和守が川越藩松平家上屋敷で、現在のホテルオークラ東京本館、大倉集古館になります。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図左上・溜池右下、松平大和守が川越藩松平家上屋敷です。]
「東京図測量原図 : 五千分 – 内題)東京府武蔵国芝区南佐久間町及愛宕町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図左上・内務省用地が川越藩松平家上屋敷跡になります。)
カメラ北東方向が川越藩松平家上屋敷跡(右・ホテルオークラ東京本館、左・大倉集古館)です。