牛久藩山口家上屋敷跡(現アメリカ大使館)

マーカーはアメリカ大使館です。

関連リンク – 牛久藩山口家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP673・コマ番号380/553から牛久藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 溜池端」がこの地になります。

牛久藩山口家
[牛久藩(うしくはん)は、常陸国河内郡に存在した藩。藩庁は牛久陣屋(現在の茨城県牛久市)。牛久藩を12代にわたって支配した山口氏は、戦国時代の西国大名では最強と呼ばれた名門・大内氏の系統と言われている。祖先は応永の乱室町幕府第3代将軍・足利義満に反乱を起こした大内義弘の次男・大内持盛と言われ、大内氏の本拠地・周防国山口の地名をとって、山口氏と称した。牛久藩の藩祖・山口重政ははじめ織田信長の次男・織田信雄に仕え、その後に徳川家康に仕えた。そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける戦功により、上総国5000石、武蔵国5000石の所領を与えられ、合計1万石を領する大名になった。その後、下野国に5000石を加えられ、1万5000石となっている。しかし慶長18年(1613年)1月8日、重政の嫡子・山口重信大久保忠隣の養女との婚姻を幕府に届けなかったとして、私婚禁止違反であるとして幕命により改易された。重信の正室は石川康通の娘で、忠隣の養女として嫁いだのだが、これが家康の怒りに触れてしまったのである。この改易は、同年の内に起こった大久保長安事件の余波のひとつでもあった。
その後、重政は罪を許されて再び常陸国遠江国に1万5000石の所領を与えられた。第2代藩主・山口弘隆のとき、領地が常陸国、下総国に集められ、牛久に陣屋を構えた。弘隆は弟・山口重恒に5000石を分知したため、牛久藩の総石高は1万石となる。その後山口氏の支配で明治維新にまで至った。  (wikipdia-牛久藩より)]

米国大使館の歴史|About THE USA|アメリカンセンターJAPAN

牛久藩山口家上屋敷跡資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション - 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元年(1831年)調」[絵図四つ切右上・山口伊豆守(山口弘封)が現在のアメリカ大使館です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図左上・溜池下、山口筑前守(山口弘敞)が牛久藩山口家上屋敷です。]

東京図測量原図 : 五千分 – 内題)東京府武蔵国芝区南佐久間町及愛宕町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図左上・文部省用地が牛久藩山口家上屋敷跡になります。)

東京市拾五区区分全図 第六 赤坂区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切右下・溜池榎坂町の米国公使館から、字「池」の左のラインまでが牛久藩山口家上屋敷跡になると思います。)

カメラ南西方向が牛久藩山口家上屋敷跡(現アメリカ大使館)です。

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