芝新銭座町

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芝新銭座町
[新銭座とは会津藩保科家の南に位置した町屋の町名のことである。名前からも分かるように銭貨を製造する銭座があり、1636(寛永13)年に設置されたが、開設していたのは数年だったようである。その後に新銭座町という町屋となった。
新銭座町のさらに南には赤穂藩森家と新見藩関家の江戸屋敷があった。幕末に、森家の屋敷の一部が上地となり、その場所に関家の屋敷が移転した。また、関家の屋敷があった場所には江川太郎左衛門(江川英龍)という伊豆韮山(にらやま)の代官の屋敷と大砲や銃器などを扱う、現在の陸軍に当たる組織の練習場(江川太郎左衛門大小砲習練場)を造った。  (「公益財団法人 東日本鉄道文化財団」より)]

[柴井町・宇田川の東、陸奥国会津藩松平家中屋敷の南に位置する片側町の町屋。芝新銭座(しばしんせんざ)町ともいう。東は御書院番桑山家屋敷地、南は大下水を境に旗本神尾家・中川御番上田家などの武家屋敷およびいわゆる韮山代官鉄砲方兼帯江川太郎左衛門大小砲習練場。
古くは網干場であったが、寛永15年(1638)常陸国水戸藩の郷士鳴海兵庫が新銭鋳造の場所として拝借し、寛永通宝銭座とした。貞享年間(1684 – 1688)に銭座(新銭座)跡が町並屋敷となった(文政町方書上)。新銭座は寛永13年銀座役人秋田宗古が芝浜手と江州坂本に設け、初めて寛永通宝を鋳造したともいわれる。この時に天海の推挙により鳴海兵庫が鋳造を命じられ、芝縄手に銭座を設けたともいう(貨幣秘録)。正保江戸絵図には当地に「銭座」と記される。貞享3年(1686年)能役者観世新九郎と碁所井上因碩が新銭座跡地に町屋敷を拝領し、その後家作が建ち町並が整った(前掲書上)。延宝年間(1673 – 1681年)の図(沿革図書)には新銭座町とみえ、すでに町屋があったように記されるが、延宝江戸方角安見図には「銭座ノアト」と記される。元禄3年(1690年)の江戸大絵図には「町」とのみある。町内間数は表京間124間余、東西は北方127間余・南方126間余、南北は西方20間・中ほど奥行3間余・東方奥行15間余。1138坪。文政10年(1827年)の家数53、うち居付地主2・家主3・地借35・店借13。桑山家屋敷地を隔てて海手に長さ15間・幅5間の町内持物揚場がある。延宝年中に埋立ててできたもので、正徳元年(1711年)物揚場内に高札が立てられた際に高札場とともに町内預となった(前掲書上)。町内に屋敷を拝領している能役者観世新九郎家は、宮増弥左衛門親賢を流祖とする(事実上の初代は二世観世九郎彦右衛門豊次という)小鼓方観世流の家。碁所井上家中村道碩を家祖とする囲碁家元四家の一つで、二代幻覚因碩(古因碩)以降代々因碩と号する。名人碁所四代道節因碩をはじめ準名人六代春碩因碩・一一代幻庵因碩などを輩出。
明治5年(1872年)南側の旧武家地および旧江川太郎左衛門大小砲習練場の一部(以上現浜松町一丁目)を編入。編入地は古くはすべて神尾家の屋敷地で、明暦3年(1657年)の新添江戸之図以降各図にみられる。天保年間(1830 – 1844年)から上田家など旗本・御家人の屋敷地として割当てられた。東側海手は新たに埋立てられて南に隣接する備中国新見藩関家の預地となっている(沿革図書)。安政3年(1856年)5月桑山家・藤掛家などの芝新銭座屋敷が召上げられ、1583坪の地所が江川太郎左衛門(江川英敏)屋敷並びに与力同心住居の地所、大小砲習練場として与えられた。前年に拝領した関家上屋敷地所のうち6634坪に続き拝領したものである(「藤岡屋日記」・屋敷渡預絵図証文・屋敷書抜)。明治維新前後には江川太郎左衛門の江川塾や慶応義塾近藤真琴の攻玉(こうぎよく)舎(のちの攻玉社中学校)があった(港区史)。  (「新銭座町 | 仲介手数料最大無料 | ジェイ・クオリス 港区賃貸」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸方角安見圖鑑 2巻. [1](延宝8 [1680])」(コマ番号14/50・左ページ下に銭座ノ跡と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右中・濱御殿の左に松平肥後守(会津藩)中屋敷があり、その南側に新銭座丁が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 八之二(天保九年・1838年)」(絵図中央右方向・松平肥後守下に新銭座町が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会

カメラ北北東方向に芝新銭座町がありました。また、芝新銭座町北方向に松平肥後守(会津藩)中屋敷がありました。

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