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虎ノ門
[「虎ノ門」とは江戸城の南端(現在の虎ノ門交差点附近)にあった門の名前であり、門が撤去された後もその近隣地域の俗称として使われ続け、交差点名や都電・地下鉄銀座線の駅名となった。虎ノ門の名が地名に初めて採用されたのは昭和24年(1949年)になってからである。江戸時代、現在の虎ノ門の一帯は、ちょうど麻布の台地と愛宕山に挟まれた低地であることから、西久保と呼ばれていた。西久保地区の大部分は武家地・寺社地であった。寛文2年(1662年)、西久保城山町の住民が武蔵野に移住し、当地に新しく西久保村(西窪村・現在の東京都武蔵野市西久保)を開拓する。元禄9年(1696年)、組屋敷があった場所に新しく神谷町が成立する。また元禄期までに、西久保地区に西久保車坂町・西久保新下谷町・西久保同朋町などの町が成立し、町奉行支配となる。
地名の由来となった虎ノ門・wikipedia-photo、虎ノ門の碑(2010年6月6日)・wikipedia-photo (wikipedia・虎ノ門より)]
[虎ノ門は、慶長11年石垣完成、寛永13年櫓門起工、慶安5年 完成、明和9年焼失、明治6年撤去(碑文より)]
[虎ノ見附門
虎ノ門は肥前国佐賀藩主の鍋島勝茂が築いた。枡形そのものものは江戸城普請の慶長11年(1606)に完成した。外桜田門(江戸六口)から東海道に通じる門で、四神相応の西を守護する白虎から虎ノ御門と呼ばれる。溜池に面した鍋島勝茂の中屋敷跡には共同通信社・JT・国立印刷局・虎の門病院がある。その対岸の特許庁あたりから濠幅を狭めた葵坂の堰と濠の中に商船三井ビルがある。 (「大江戸歴史散歩を楽しむ会 – 虎ノ御門」より)]
玉川上水樋管
「玉川上水留. [28] 玉川上水虎御門外通入子樋枡御普請一件 弘化三午年閏五月 御普請方 分冊ノ一」(24/73・虎ノ門南側・虎ノ門入りと東方向への玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [29] 玉川上水虎御門外通入子樋枡御普請一件 弘化三午年閏五月 御普請方 分冊ノ二」(14~16/70・虎ノ門南側・葵坂からの玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [30] 玉川上水虎御門外通入子樋枡御普請一件 弘化三午年閏五月 御普請方 分冊ノ三」(22/70・虎ノ門南側・葵坂からの玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [25] 玉川上水虎御門内御用屋敷掛樋枡井戸共御修復一件 天保十四卯年十二月より同十五辰年三月迄 分冊ノ二」(9,18/60・虎ノ門内から北方向への玉川上水樋管が描かれています。)
虎ノ門資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城見附図 2巻. [2]」(コマ番号34-38/68・虎之御門)
(拡大図)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年) 」(絵図中央右・溜池の右上に「虎之御門」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1849年)」(絵図左上・溜池の右に「虎之御門」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年(1861年) 調)」(コマ番号3/3・絵図中央下に「虎御門」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号71~73/87・絵図下に「虎御門」が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国芝区南佐久間町及愛宕町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)(地図四つ切左上・工部大学校右に虎ノ門が描かれています。)
(名所江戸百景・ 虎の門外あふひ坂 – wikipedia-photo)
江戸後期の虎ノ門の写真です。
カメラ位置は旧文部省庁舎前で、カメラ位置付近に虎ノ門があったようです。
カメラ北方向、地下鉄口左に虎ノ門碑が設置されています。