鯖江藩間部家中屋敷跡

マーカーは鯖江藩間部家中屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP834・コマ番号461/553の鯖江藩上屋敷の変遷について記載されています。P839・コマ番号463/553「下屋敷 本芝一丁目」がこの地になります。この屋敷地は安政二(1855)年上地となり、松代藩真田家が拝領し、鯖江藩は浜町に屋敷地を拝領します。

間部詮実
[間部 詮実(まなべ あきざね、文政10年4月28日(1827年5月23日) – 文久3年11月27日(1864年1月6日))は、越前鯖江藩第8代藩主・間部詮勝の次男。江戸に生まれる。幼名は岩次郎、または巌次郎。長兄が早世したため世子に選ばれた。天保11年(1840年)、将軍徳川家慶に初めて拝謁する。天保12年(1841年)12月、部屋住みの身分のまま従五位下・安房守に叙任する。文久2年(1862年)11月20日に父詮勝が安政の大獄などを行った責任を追及され、1万石削減の上で強制隠居処分となったため家督を継いだものの、詮実も連座して自宅謹慎させられた。文久3年(1863年)1月12日、謹慎を解かれ、同年3月には御殿山下の警護を命じられている。しかし同年11月27日、家督を継いでからわずか1年ほどで死去した。享年37。詮実には実子として長男の詮成と2人の女子がいたが、いずれも早世したため、家督は弟で養嗣子の詮道が継いだ。  (wikipedia・間部詮実より)]

間部詮道
[間部 詮道(まなべ あきみち、嘉永6年9月6日(1853年10月8日) – 25年(1892年)4月6日)は、越前鯖江藩の第9代(最後)の藩主。間部家10代。第7代藩主・間部詮勝の八男。官位は正五位、下総守。
江戸で生まれる。幼名は卍治。文久3年(1863年)、先代藩主で兄の詮実が死去したため、翌年3月29日にその養嗣子として跡を継ぎ、雁の間詰になった。慶応元年(1865年)2月1日、将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月25日に従五位下・下総守に叙任された。慶応3年(1867年)3月23日に元服し、正式に詮道と名乗る。慶応4年(1868年)4月5日、上洛する。明治2年(1869年)3月、版籍奉還を建白し、同年6月20日、鯖江藩の知藩事となる。  (wikipedia・間部詮道より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右下に間部下総守(間部詮勝)中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/2・絵図右下に間部下総守(間部詮勝)中屋敷が描かれています。)

カメラ位置は港区芝浦1丁目交差点で、カメラ西方向が鯖江藩間部家中屋敷跡になると思います。