金輪寺

マーカーは金輪寺です。

金輪寺
[金輪寺(きんりんじ)は、東京都北区岸町一丁目にある真言宗霊雲寺派の寺院。
同寺は明治36年(1903年)に、それまで近隣の王子神社および王子稲荷神社別当を務め、江戸時代には徳川将軍家の御膳所にもなった、地域を代表する寺院であった禅夷山東光院金輪寺(神仏分離令により廃寺)の支坊(塔頭)の一つであった藤本坊が、金輪寺の名を継ぎ再興したものである。再興にあたっては、真言宗霊雲寺派の霊雲寺(東京・湯島)の正行和尚と地元の檀信徒の働きが大きかった。
同寺の墓地には、王子村の名主で、近隣にある名主の滝公園の由来でもある畑野孫八の墓所もある。
旧・金輪寺
廃寺になった元の金輪寺は、平安時代康平年間(1058年 – 1065年)、源義家前九年の役で勝利し、凱旋した折に甲冑を奉納し、敵方の安倍氏の兵士の冥福を祈る祈願所を創建したのが始まりであると言われる古刹であった。
その後は荒廃し、いつしか無住の寺となっていたが、江戸時代初期に徳川秀忠の命で宥養上人によって再興され、王子神社及び王子稲荷神社の別当寺になり、歴代将軍の御膳所を務める格式ある寺院となった。
また、最盛期には支坊が6つあり(12という説もある)、関東古義派5か寺の一つであった。
しかし、金輪寺は1860年の火災により伽藍を焼失し、その後も再興されずに、明治時代の神仏分離令によりそのまま廃寺となった。
前述の通り、金輪寺の名は支坊の一つ・藤本坊が引き継ぎ現在に至っている。また、別に残ったもう一つの支坊・弥陀坊は、現在は金輪寺の境外仏堂・阿弥陀堂となって、金輪寺の近隣(東京都北区王子本町一丁目5番17号)に所在している。  (wikipedia・金輪寺_(東京都北区)より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御放鷹御成御膳所圖(文化11 [1814] [写])」(コマ番号51/99・別当金輪寺御膳所絵図で、絵図左に王子権現が描かれています。別当金輪寺御膳所として使用された座敷を飛鳥山公園北区飛鳥山博物館で再現常設展示されています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「十八講」(15-33)、「金輪寺解説」(15-34)
十八講(拡大図)

[毎歳正月十七日王子村農家に是を行ふ当日権現の別当金輪寺の住持を招請し酒飯の饗応半ばにして当番の百姓、杵(きね)飯鍬(しゃもじ)魚盤(まないた)の三品を携へ出てのめそよいやさの懸け聲をなして食をすすむ是此地の旧例にして十八講とハ昔神領十八箇村ありし頃の旧称ときこゆ]

カメラ西方向が金輪寺です。