常陸宍戸藩松平(水戸)家上屋敷跡(東京カテドラル聖マリア大聖堂)

マーカーは常陸宍戸藩松平(水戸)家上屋敷跡です。

関連リンク – 常陸宍戸藩松平(水戸)家高田下屋敷跡宍戸藩松平(水戸)家深川下屋敷跡

常陸宍戸藩松平(水戸)家
[常陸宍戸藩(ひたちししどはん)は、常陸国茨城郡宍戸(現在の茨城県笠間市平町)に存在した藩。藩庁は宍戸陣屋に置かれた。
慶長7年(1602年)、出羽秋田より秋田実季が5万石で入ったことにより立藩した。寛永7年(1630年)9月、実季は罪を得て幕命により伊勢国朝熊に流され、家督は子の俊季が継いだ。正保2年(1645年)7月、俊季は陸奥国三春藩に転封となり、その後の宍戸は幕府領水戸藩領となった。
天和2年(1682年)2月、水戸藩主徳川光圀は、弟の松平頼雄に1万石を分与して新たに立藩させた。6代藩主頼敬の頃から財政の窮乏化、天災による農村の荒廃が相次ぎ、藩は北陸などから逃散した百姓の入植を奨励したが、不徹底だったため改革は失敗し、天保年間には窮した百姓が水戸藩に対して救援を求める越訴を起こした。
8代藩主頼位は水戸藩主徳川斉昭に同調して、軍事改革など藩政改革を行なっている。天狗党の乱では、9代藩主頼徳は幕命により鎮圧に当たったが失敗した。その後、天狗党に同情的であったことを幕府から追及され、元治元年(1864年)10月、頼徳は切腹を命じられて宍戸藩は改易された。
その後、宍戸は幕府の関東取締出役5名が支配する幕府領となったが、慶応4年(1868年)2月、朝廷の計らいにより先代頼位(頼徳の父)の再襲が認められて再び立藩した。明治2年(1869年)、版籍奉還で頼位は知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃藩、宍戸県となった。
松平氏定府であったため、宍戸において際立った治績は見られない。宍戸における政務としては陣屋を構えて年貢を取り立てるのみで、実質的な藩政は本藩である水戸藩によって執り行なわれていた。  (wikipedia・常陸宍戸藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 音羽絵図(嘉永6年・1850年)」(絵図中央左下方向に松平大炊頭(松平頼徳)上屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 5号」(コマ番号2/6・絵図四つ切右上に桂林寺右下に上り地が常陸宍戸藩松平(水戸)家上屋敷跡になります。)

東京市拾五区区分全図 第十壱 小石川区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切左下・関口台町19,20と関口町195-200が常陸宍戸藩松平(水戸)家上屋敷跡になると思います。)

カメラ北北東方向が常陸宍戸藩松平(水戸)家上屋敷跡に建つ東京カテドラル聖マリア大聖堂です。