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御鷹部屋御用屋敷跡(雑司ヶ谷霊園)
[雑司ヶ谷霊園は、豊島区南池袋四丁目の七割を占める面積約11万平方メートルの都営霊園で、江戸時代(安政4年/1857年)の絵図では、将軍の御座所として御用屋敷や御鷹部屋(お鷹狩りのための居留地)があった所です。この地域は東京市街地の郊外にあたり、明治のはじめに墓所を持たない東京を故郷とする市民(当時の東京府東京市)のために、共同墓地として造営されました。もと雑司ヶ谷旭出町墓地を東京府が引き継ぎ、明治7(1874)年9月「雑司ヶ谷墓地」として現在の北側部分が開設され、同22(1889)年に東京市に移管、周辺農家を買収・拡張し同33年には現在のような広さになりました。昭和10年5月「雑司ヶ谷霊園」と改め現在に至っています。
※江戸時代中期の享保4(1719)年以降、徳川幕府の御鷹部屋がありました。 (「雑司ヶ谷霊園」より)]
[説明板の掲示内容
このあたりには、江戸時代中期の享保四年(1719年)以降、幕府の御鷹部屋がありました。御鷹部屋には鷹匠頭をはじめ目付、同心など常時七、八十名がおり、鷹狩りに用いる鷹の飼育や訓練等を行っていました。また、鷹狩りの際には将軍が立ち寄って休息したり食事をとったりしたこともあったようです。御鷹部屋敷地内には松の木がありました。この松の木は当時の様子をしのばせてくれます。 (「南池袋・東池袋・雑司が谷 豊島区通信・御鷹部屋」より)]
[日本の鷹狩文化の発展において最大の功労者である徳川家康は優れた鷹匠の雇用にも熱心で、文禄元年(1592)には後北條氏の鷹匠、間宮左衛門信繁を雇用、鷹匠頭とした。間宮家は禰津流もしくは諏訪流の系譜にあったとされ5代々鷹匠頭を世襲したが、享保年間(1716~1736)に断絶した。
鷹匠頭は間宮、戸田家が任じられていたが、間宮家が断絶したことから小栗、森川、小林、能勢の諸氏がこれにあたったが、明和7年(1770)から千駄木が内山家、雑司ヶ谷が戸田家の世襲とされた。 (「諏訪流放鷹術 – 要旨」より)]
【池袋遺跡~御鷹方御役屋敷の発掘調査】
[東池袋遺跡は、江戸時代のはじめ頃の旗本中西家の屋敷地をおおむねその範囲としていますが、1719(享保4)年に屋敷地は東西に分割され、「御鷹方御役屋敷」が1864(元治元)年まで設けられました。屋敷地が分割された享保年間といえば、吉宗が将軍となり鷹狩を盛んに行うようになった時期です。
文献資料によれば、この屋敷地には、20軒前後の鷹匠(たかしょう)の屋敷と、鷹匠同心の長屋が建っていました。鷹を飼育している「御鷹部屋」は、現在の雑司が谷霊園にあり、職場と住まいは区別されていました。
東池袋遺跡では、これまでに幾つかの発掘調査が行われていますが、主なものは簡保検診センター地区、東池袋四丁目再開発地区の2つです。これらの発掘調査では、御鷹方の屋敷地であった時代の遺構や遺物が発見されています。
(「雑司が谷地域の考古学 – 特定非営利活動法人 としま遺跡調査会」より)]
御鷹部屋御用屋敷資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 音羽絵図(嘉永6年・1853年)」(絵図上護国寺の左方向に御鷹部屋御用屋敷と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 5号」(コマ番号2/6・絵図中央下に「元 御鷹部屋」、その左に「元 御鷹方御用屋鋪と描かれと描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [27]貮拾利(嘉永7年・1854年)」(コマ番号4/7・絵図中央下に御鷹部屋が描かれ、その左下方向、コマ番号6/7を見ると、御鷹方 御役屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [26]貮拾利」(コマ番号125/163・享保四亥年(1719年)之形に御鷹方御役屋敷と記述されています。コマ番号124/163・延寶年中(1673年-1681年)之形には全地中西圖書の屋敷地になっているので、享保元年・1716年徳川吉宗が将軍になると鷹狩が復活し、間宮信繁と戸田五助が鷹匠頭に任じられました。この後、組屋敷は浄瑠璃坂組屋敷から移ったと思われます。)
カメラ西北西方向に御鷹部屋御用屋敷跡の説明板があります。