マーカーは広島新田藩浅野家上屋敷跡です。
広島新田藩浅野家
[広島新田藩(ひろしましんでんはん)は、享保15年(1730年)より広島藩の蔵米3万石を与えられ、広島藩4代・浅野綱長の三男・長賢により立藩した。藩主は参勤交代を行わず江戸定府の大名であった。藩主家は江戸屋敷の所在地から青山内証分家(青山浅野家)と呼ばれた。元治元年(1864年)には吉田(現在の安芸高田市)に吉田陣屋を構えた。明治2年(1869年)、広島藩に併合され廃藩となった。 (wikipedia・広島藩#広島新田藩より)]
青山北町アパート
[青山北町アパート(あおやまきたまちアパート、青山北町団地)は、東京・青山にあった都営住宅(団地)。東京都営住宅条例に基づき、東京都都市整備局によって管理・運営されている。2006年(平成18年)頃以降には住民の退去が進められ、一帯は再開発工事が行われている。
所在地は港区北青山3-4他であり、青山通り(国道246号線)の北側裏手に広がる約4ヘクタールに及ぶ敷地内には1957年(昭和32年)から1968年(昭和43年)にかけて建設された4階から5階建てのアパートが25棟建っている。
都営住宅の常として、全戸が賃貸の集合住宅であり、現時点での管理戸数は376戸となっている。各戸の面積は32 – 52平米、間取りは2DK – 3DKで、いずれの建物にもエレベーターは設置されていない。また、団地の敷地内には港区立青山保育園や訪問看護ステーションなどが設置されている。
東京都の再開発事業「北青山三丁目地区まちづくりプロジェクト」が行われており、2019年に20階建ての都営北青山三丁目アパートが竣工した。
東京府青山師範学校
青山北町アパートの所在地は、師範学校や旧制中学校など東京府立のいくつかの学校の跡地である。
初めは1900年(明治33年)、東京府師範学校、および東京府師範学校附属小学校がそれまでの小石川区竹早町からこの地(赤坂区青山北町5丁目=当時)に移転・開校した。1908年(明治41年)には東京府青山師範学校、および東京府青山師範学校附属小学校と改称し、1936年(昭和11年)に世田谷下馬町に移転するまで当地にあった。
師範学校と同附属小学校の移転後にはいくつかの府立新設中学校等が一時的に仮校舎としてこれを使用したほか、1939年(昭和14年)から翌年までは東京府立青年学校教員養成所が置かれた。さらに、1940年(昭和15年)には東京府立第十五中学校(東京都立青山高等学校の前身の一つ)がここに開設された。
しかしながら、これら歴代の学校によって使われた校舎・学校施設は1945年(昭和20年)5月のアメリカ軍による東京大空襲によって焼失、第十五中学校もこれによって当地での教育が続けられなくなり、終戦後にも当地に戻ることはなかった。
かつて学校があった青山北町アパートの青山通り側入り口付近には、東京府師範学校(東京府青山師範学校)の同窓生によって1972年(昭和47年)に建てられた記念碑が存在する。
青山師範学校跡を表す碑・wikipedia-photo (wikipedia・青山北町アパートより)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」[絵図四つ切右上に松平近江守(浅野長訓)上屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 千駄ヶ谷其外村々諸屋敷色分図. [3]」(コマ番号4/52・絵図上、廣島藩邸上、善光寺左のモスグリーンの地が広島新田藩浅野家上屋敷跡になると思います。)
カメラ東方向が青山師範学校跡を表す碑で、カメラ北方向が青山北町アパート群で、カメラ西南西方向が再開発された都営北青山三丁目アパートです。