マーカーは東郷神社です。
関連リンク – 鳥取藩池田家上屋敷跡(帝国劇場・出光美術館)、鳥取藩池田家中屋敷跡、因州池田屋敷表門、鳥取藩池田家深川下屋敷跡、鳥取藩池田家芝金杉下屋敷跡(芝金杉別荘「雲濤楼」)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP412・コマ番号250/553から鳥取藩屋敷の変遷について記載されています。P418・コマ番号253/553「抱屋敷 青山 豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿」がこの地になります。
[天保6年(1835)から嘉永2年(1849)までは上野高崎藩松平家の抱屋敷で、嘉永2年から明治維新までは石見津和野藩亀井家の抱屋敷でした。
この地には戦前、海軍館や東郷神社・池田邸があり、戦後は社会事業大学を経て中央図書館・原宿外苑中学校・原宿警察署・東郷神社などになっています。 (「港 区 渋谷区 – 渋谷区立図書館」より)]
東郷神社(鳥取藩池田家下屋敷跡・東京都渋谷区神宮前1丁目5)
[日露戦争時の連合艦隊司令長官東郷平八郎をまつる東郷神社。
この敷地は旧鳥取藩主池田侯爵家のものでした。
文久2(1862)年最後の鳥取藩主池田慶徳のときにこの土地を入手しました。
広さは、約2万坪あり、うっそうとした樹木に囲まれ中央に800余坪の池がありました。 (「東郷神社/東京本部/とりネット/鳥取県公式サイト」より)]
[竹下通りの延長線上の路地を入り明治通りを渡ったところに東郷神社(海抜22m)があります。江戸時代は松平美濃守(筑前福岡藩黒田家)屋敷でその後明治に入り因幡国鳥取藩池田侯爵家の所有となっています。現在は日露戦争の英雄東郷平八郎元帥海軍大将が祀られています。 (「穏田川の猫通りをいく – 東京街歩き高低差研究所」より)]
[東郷神社(とうごうじんじゃ)は、東京都渋谷区神宮前一丁目に鎮座する神社。東郷平八郎元帥を祀る。
東郷平八郎が昭和9年(1934年)5月30日に亡くなると、全国から海軍省に東郷を顕彰する神社の創建の要望と献金が相次いだ。当時の海軍大臣大角岑生が財団法人東郷元帥記念会を設立し、寄せられた献金によって神社の創建が計画された。昭和12年(1937年)9月に地鎮祭、昭和15年(1940年)5月27日(海軍記念日)に御鎮座祭が行なわれ、同時に府社に列格した。
昭和20年(1945年)には別格官幣社への昇格がほぼ決まりかけていたが、東京大空襲によって社殿が焼失し、昇格は断念された。戦後になって復興の機運が高まり、昭和33年(1958年)に奉賛会が結成され、昭和39年(1964年)に社殿が完成した。
平成元年(1989年)2月3日には東郷神社爆破事件が起きている。
東郷神社表参道鳥居・wikipedia-photo
神門・wikipedia-photo
東郷神社拝殿・wikipedia-photo
(wikipedia・東郷神社_(渋谷区)より)]
[東郷自身は生前乃木神社建立の時、(陸軍に対抗するために)将来自身を祭る神社の設立される計画を聞いて驚き、「やめてほしい」と強く懇願したが、願いは聞き入れられず結局神社は建立されている。
晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた。 海軍省内では軍令部総長・伏見宮博恭王と共に「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障害とみなされた。そして伏見宮すら「自分と東郷の意見が分かれるようなことがあってはならん」と気にしていた。井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐したうえで、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と語っている。また岡田啓介・米内光政・山本五十六なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。昭和期の海軍内の抗争において、東郷・伏見宮は艦隊派を後援し、岡田らは条約派に属した。 (wikipedia・東郷平八郎より)]
[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、
●天保6年(1835)3月 – 原宿に高崎藩主松平家抱屋敷ができる。
と記述されています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図」[絵図は嘉永6年(1853年)尾張屋清七版で、絵図上中央に松平美濃守(高崎藩松平家)下屋敷が東郷神社で、この地を文久2年(1862年)鳥取藩池田家が購入しています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 千駄ヶ谷其外村々諸屋敷色分図. [3]」(コマ番号23/52・絵図に亀井隠岐守元抱屋敷、抱地が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号(出版年不明(1)」(コマ番号2/5・絵図下中央右、松平相模守(池田慶徳)抱屋敷と描かれています。)
「東京都立図書館アーカイブ – 東京府豐多摩郡内藤新宿町千駄ヶ谷町(出版年-1920.1)」(地図中央下・大字原宿字石田の大字境界、字境界と右の道路に囲われた区域が鳥取藩池田家下屋敷跡と思われます。)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) 」 – 「首都圏」(1896~1909年地図を見ると明神宮建設前の状況がわかります。1896~1909年地図で「はらじゅく」右で、千駄谷町下の道路に囲まれたエリアが鳥取藩池田家下屋敷と思われます。
カメラ西北西方向が東郷神社表参道です。
カメラ東北東方向が西参道です。
東郷神社池前のカメラです。
カメラ北方向が東郷神社神門です。
カメラ北方向が東郷神社拝殿です。