マーカーは柳本藩織田家下屋敷跡です。
関連リンク – 柳本藩織田家上屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP730・コマ番号409/553から柳本藩屋敷の変遷について記載されています。P731・コマ番号409/553「下屋敷 青山百人町」がこの地になります。
織田尚長
[織田 尚長(おだ なおなが)は、江戸時代初期から前期にかけての大名。大和国柳本藩初代藩主。尚長流織田家初代。官位は従五位下・武蔵守、越後守、大和守。
慶長元年(1596年)、織田長益(有楽)の五男として摂津国味舌村(現大阪府摂津市)にて誕生。
慶長19年(1614年)7月3日、従五位下武蔵守に叙任する。同年12月、長益が豊臣家の重臣であったため、大坂冬の陣の終結に際して豊臣家から徳川家に人質に出される。慶長20年(1615年)4月、大坂城を退去した父・長益と共に徳川家康に御目見する。
元和元年(1615年)8月12日、長益から大和式上郡・山辺郡内で1万石を分与された。始めは大泉村、次いで柳本村に陣屋を構えた。寛永3年(1626年)3月徳川秀忠に従い上洛し、同年9月徳川家光に従い参内した。寛永13年(1636年)1月8日、江戸城の石普請を命じられる。
寛永14年(1637年)11月3日、死去。享年42。 (wikipedia・織田尚長より)]
織田信及
[織田 信及(おだ のぶひろ(のぶつぐ)、天保14年(1843年) – 明治22年(1889年)8月2日)は、大和柳本藩の第13代(最後)の藩主。
第11代藩主・織田信陽の十男。通称は元丸、修理。初名は長依。官位は従五位下大和守。
天保14年(1843年)生まれとも、天保15年(1844年)10月8日生まれとも言われている。慶応4年(1868年)4月12日、新政府側の優位な情勢を見極めたところで、兄の12代藩主信成の名代として上洛する。閏4月19日、信成の養子となる。5月6日、信成の隠居により家督を相続した。5月14日、従五位下大和守に叙任する。6月25日、新政府から帰藩を許可される。10月12日、崇神天皇陵、景行天皇陵の修復許可を願う。
明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により柳本知藩事となり、明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で免官された。 (wikipedia・織田信及より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」[絵図中央左上・織田安芸守(織田信陽)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は港区北青山3丁目6東角で、カメラ北西方向が柳本藩織田家下屋敷跡になると思います。