此辺長者ヶ丸

マーカーは此辺長者ヶ丸です。

長者丸横町
[「江戸切絵図集成」尾張屋版の『青山澁谷繪圖』に「長者ヶ丸」と書かれている部分と近江屋版に「此辺青山長者ヶ丸ト云」と書かれている部分が喰い違っている。
尾張屋版の「長者ヶ丸」を現代地図にトレースすると、①中山ビルディング(港区南青山三丁目17番14号)から②ティーイズム(港区南青山三丁目14番3号)まで、②から③シャトー東洋(港区南青山四丁目18番8号)まで、そして③から④王子ホームズ青山(港区南青山四丁目22番1号)まで、④から①までの括り。
また近江版に「此辺長者ヶ丸ト云」と書かれているのは、現在「長者丸通り 青山長者丸商店会」と呼ばれている細い道の両側で、始点はUR都市機構南青山3丁目アパート青山センタービル(青山三丁目8番40号)と編集時現在工事中の土地(南青山三丁目1番28号)の間、終点は青山彫金・金工スクール(南青山三丁目5番4号)とハヤカワビル(港区南青山三丁目4番11号)の間かと見られる。
また別の資料によると、「長者丸」の俚俗名は南青山四丁目のものであるともいわれている。以下多少の編集をして引用すると、そこは「応永年間(1394~1428年)の頃まで栄えたという渋谷の長者(白金の長者に対し黄金の長者とも)の居住地で墓跡もあったという。渋谷氏・金王丸の家系との関係は明らかではないが、この付近も中世以前は西部が渋谷村のうちであった。東部は一ツ木村との間に原宿村となっていた。青山成立後も幕末まで南部に原宿村飛地が残ったのは、青山の地名が村の間に割りこんだ証拠であろう。白金長者の息子と、渋谷の長者の娘の恋愛成就を目黒不動が助けるという『笄橋利生譚』、八朔に長者の祭りをする伝承、松前家の塚を掘れば祟りがあるという伝承等がある。麻布朝日稲荷の神体や麻布桜田専称寺の観音が長者丸で得られたというのは、何か宗教的な意味を持つ場所でもあろうか」とのことだ。
また、『角川日本地名大辞典』の「長者」を簡単に編集して紹介すると、「江戸期からの青山百人町の南の俗称地名であり、長者が丸ともいったようだ。代々幼名を「金王丸」と呼ぶ渋谷長者がここに住み、白銀村の白金長者に対して黄金長者とも称して、応安年間(1368~1374年)頃まで栄えていた。その子孫が百姓となってこの辺に住んだことに因むという(再校砂子・備考)。「長者が丸」を「長者丸」と言い始めたのはいつ頃からか判らないが、明治末期には長者丸の呼び方が固定していたと思われる。現行の南青山三丁目と南青山四丁目の東側一帯」とある。しかし、三丁目と四丁目は東西に並んでおり、その東側をその地域の一帯と示すのは無理がある。
1879(明治12)年の『明治十二年東京全図』には「俚俗長者丸横町」とハッキリ書かれているので俗称地名であることは間違いない。なお、上術のとおり、この附近は原宿村の飛地であり、その一部は町家化した青山原宿町の飛び地が存在したことも確認できる。ただ、「長者丸横町」という地域が俗称町名なのか現在の長者丸通りの道名なのかは特定はできない。  (「【赤坂②】長者丸横町 | 江戸町巡り」より)]

[青山に姫下坂(ひめおりざかという古い坂があった。嘉永六年の『東都青山絵図』では、長谷寺という大きな寺の北にあたって「此辺長者ヶ丸」と記してある。今の赤坂青山南町五丁目の中央部にあたる。これは応安の頃の渋谷長者の屋敷があったところと言われる。図の松前伊豆守の邸中には、渋谷長者の墳墓らしい塚があったと言われる。一説に、渋谷長者の幼名は金王丸で、白金村の白金長者に対して、黄金長者と呼ばれたという。青山北町六丁目の古塚は、渋谷金王丸あるとも伝える。(赤坂青山南町五丁目、青山北町六丁目は、後の南青山三、四丁目、北青山三丁目)  (「横関英一著「江戸の坂 東京の坂(全)」より)]

北坂、さんさん坂 – yeddo-aruki

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央・「此辺長者ヶ丸」と記述されています。)

カメラ東方向は此辺長者ヶ丸の中心となると思われる、東京都港区南青山4丁目17になります。