牛久藩山口家下屋敷跡

マーカーは牛久藩山口家下屋敷跡です。

関連リンク – 牛久藩山口家上屋敷跡(現アメリカ大使館)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP673・コマ番号380/553から牛久藩屋敷の変遷について記載されています。P674・コマ番号381/553「下屋敷 渋谷」がこの地になります。

山口弘敞
[山口 弘敞(やまぐち ひろあきら)は、常陸牛久藩の第11代藩主。
文化9年(1812年)、第8代藩主・山口弘致の四男として生まれる。嘉永2年(1849年)12月18日、兄で第10代藩主の弘穀が嗣子無くして死去したため、その養子となって跡を継いだ。嘉永3年3月15日、将軍徳川家慶にお目見えする。同年12月16日、従五位下筑前守に叙任する。
藩政においては兄と同じように藩財政再建のため、新田開発や干鰯の貸付を奨励するなどした改革を行い、成功させている。文久2年(1862年)6月14日に死去した。享年51。跡を長男の弘達が継いだ。  (wikipedia・山口弘敞より)]

山口弘達
[山口 弘達(やまぐち ひろよし)は、文久2年(1862年)8月6日、父が死去したため、わずか3歳で家督を継いだ。慶応4年(1868年)2月20日、幼少のために重臣を上洛させて、恭順の姿勢を示した。戊辰戦争で藩は新政府に与し、龍ヶ崎や水海道へ出兵する。同年10月5日、上洛する。明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事(家禄370石)となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官となる。  (wikipedia・山口弘達より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」[絵図中央下左に山口筑前守(山口弘敞)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [12]拾七下(嘉永元年・1850年)」(コマ番号3/7・絵図四つ切右下に山口周防守(山口弘穀)下屋敷が描かれています。二つに分割されている屋敷地の間の道は屋敷内道となっています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [11]拾七下」(コマ番号147/196-154/196、コマ番号181/196-184/196に下屋敷が描かれています。)

カメラ南東方向道路両サイドが牛久藩山口家下屋敷跡になります。カメラ方向の道路は屋敷内道として江戸時代からありました。