マーカーは福岡藩黒田家下屋敷跡です。
福岡藩黒田家関連リンク- 福岡藩黒田家上屋敷跡(外務省)、福岡藩黒田家中屋敷跡、福岡藩黒田家深川下屋敷跡(蔵屋敷)
丸岡藩有馬家関連リンク – 丸岡藩有馬家上屋敷跡、丸岡藩有馬家中屋敷跡
黒田長溥(黒田斉溥)
[黒田 長溥(くろだ ながひろ)は、文化8年(1811年)3月1日、薩摩藩主・島津重豪と側室・牧野千佐との間に重豪の十三男として生まれる。千佐は家臣の家で働く身分の女性だったが、重豪も圧倒されるほどの大柄で大酒飲みだったと言われ、惚れ込んだ重豪の求めによって側室となった。そんな母の血を継いだ長溥もまた大柄であった。2歳年上の大甥・斉彬とは兄弟のような仲であったという。
黒田家入り
文政5年(1822年)、第10代福岡藩主・黒田斉清と正室・宝林院(二条治孝の娘)の娘・純姫と婚姻、婿嗣子となる。養父同様、将軍徳川家斉の偏諱を授かって黒田斉溥と称した(家斉は斉溥からみて養父の伯父、また姉の広大院が家斉の御台所であることから義兄にあたる)。天保5年(1834年)11月6日、斉清の隠居により家督を相続した。就任後は実父の重豪に倣って近代化路線を推し進めた。現在は歓楽街で有名な中洲の一部である博多岡崎新地に、精練所と反射炉を建設した。次いで見込みのある藩士を積極的に出島へ派遣し、西洋技術の習得に当たらせた。藩士たちの一部から福岡県で最初の時計屋や写真館を開く者が現れた。蘭癖と称された斉溥の西洋趣味はこれに留まらず、オランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組んだ。他にも医術学校の創設や種痘の実施、領内での金鉱・炭鉱開発を推進したが、鉱山関連に関しては様々な困難や妨害に遭い、当時の日本における石炭を使った産業を育成しようとしたが、当時は技術がそれほど進んでおらず道半ばであった。
嘉永元年(1848年)11月、伊勢津藩主・藤堂高猷の三男・健若(のち慶賛、長知)を養嗣子とする。嘉永3年(1850年)、実家島津家の相続争い(お由羅騒動)に際し、斉彬派の要請に応じて、老中・阿部正弘、宇和島藩主・伊達宗城、福井藩主・松平慶永らに事態の収拾を求め、翌嘉永4年(1851年)にその仲介に努め、斉彬の藩主相続を決着させた。
ペリー来航
嘉永5年(1852年)11月、福岡藩・佐賀藩・薩摩藩は、幕府からペリー来航予告情報を内達される。福岡・佐賀は長崎警備の任にあり、薩摩は琉球王国を服属させていたことから、外交問題に関係が深かったためである。情報を受けた斉溥は同年12月、徳川幕府に対して建白書を提出した。それは幕府の無策を批判し、ジョン万次郎の登用や海軍の創設を求めるものであった。一大名が堂々と幕府批判を行うということは、前代未聞の行動であった。結局建白書は黙殺され、その主張が採用されることはなかったが、斉溥や藩家老の黒田増熊が処分を受けることもなかった。
嘉永6年(1853年)7月、ペリー艦隊の来航を受けた幕府の求めに応じ、再度建白書を提出した。この中で、蒸気船を主力とした海軍による海防の強化、通商を開き欧米から先進技術を導入すること、アメリカ・ロシアと同盟すればイギリス・フランスにも対抗し得ることなどを主張している。
安政6年(1859年)には、再来日したシーボルトによる解剖学の講義を受け、死体を直接手にとってもいる。
元治元年(1864年)、参議となり、筑前宰相と呼ばれる。
乙丑の変とその後
斉溥は斉彬と同様、幕府に対しては積極的な開国論を述べている。慶応元年(1865年)、藩内における過激な勤王志士を弾圧した(乙丑の獄)。しかしその後は薩摩藩と長州藩、そして幕府の間に立って仲介を務めるなど、幕末の藩主の中で大きな役割を果たしている。斉彬派だったために様々な辛苦を受けた西郷隆盛は、斉溥に助けられた一人である。弾圧事件の前後から月代を剃らなくなり、また顎鬚も伸ばし放題にした。
明治初期頃、名を長溥(ながひろ)と改めた。明治2年(1869年)2月5日には隠居して、養嗣子の長知に家督を譲っている。長知が岩倉使節団に随って海外留学する際に、金子堅太郎と團琢磨を出し、長知に随行させた。團は、かつて長溥が行った種痘の実験で長男を死なせた側近・神屋宅之丞の四男で、無残な結果を悔やんだ長溥の、神屋に対する詫びとしての指名だったとも言われている。
明治18年(1885年)、金子堅太郎の献策を採用し、旧福岡藩士との協議の末、黒田家の私学・藤雲館の校舎・什器一切を寄付し、旧福岡藩校修猷館を福岡県立修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)として再興する。明治20年(1887年)3月7日、東京赤坂の黒田本邸にて77歳で死去した。 (wikipedia・黒田長溥より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP765・コマ番号426/553から福岡藩屋敷の変遷について記載されています。P766・コマ番号427/553「下屋敷 渋谷」がこの地になります。
[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、
●寛文元年(1661)12月 – 播磨小野藩主一柳家拝領屋敷(旧常磐松町)ができる。
●宝暦10年(1760) – 一柳家下屋敷(旧常磐松町)、黒田家下屋敷となる。
●天保6年(1835)3月 – 黒田家下屋敷の一部(旧常磐松町)、相対替で丸岡藩有馬家(有馬徳純)下屋敷となる。
と記述されています。]
有馬徳純
[有馬 徳純(ありま のりずみ)は、文化元年(1804年)5月1日、越後高田藩主榊原政敦の四男として生まれる。文政3年(1820年)3月21日、丸岡藩第5代藩主有馬誉純の養子となる。前年、養父誉純は養子一純(実父島津重豪)を離縁していた。同年6月1日、将軍徳川家斉にお目見えする。文政4年12月16日、従五位下左衛門佐に叙任する。文政13年(1830年)4月23日、養父誉純の隠居で跡を継いだ。
天保8年(1837年)9月22日に死去した。享年34。跡を婿養子の温純が継いだ。 (wikipedia・有馬徳純より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – [江戸図正徳四(1714)年]」(コマ番号3/5・絵図中央上方向に一柳土佐守(一柳末昆)屋敷地が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」[絵図中央左方向・松平美濃守(黒田斉溥)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [12]拾七下(嘉永元年・1850年)」(コマ番号5/7・絵図中央右に松平美濃守(黒田斉溥)下屋敷が描かれ、その右上に有馬日向守(有馬温純)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [11]拾七下(嘉永元年・1850年)」(コマ番号194/196の絵図左ページに松平美濃守(黒田斉溥)下屋敷が描かれ、その左上に有馬日向守(有馬温純)下屋敷が描かれています。)
「東京府豊多摩郡渋谷町全図|公益財団法人特別区協議会」(地図中央・字伊勢山614,618,619番が諏訪藩諏訪家下屋敷跡、604-613の内が丸岡藩有馬家下屋敷跡になると思います。)
カメラ位置は渋谷区立渋谷図書館前で、図書館前通りから南西方向が福岡藩黒田家下屋敷跡になります。
カメラ位置は金王八幡交差点南側の小路前で、カメラ南東方向小路が福岡藩黒田家下屋敷跡の中心道路になります。
カメラ位置は渋谷区東1丁目25-2地先前交差点で、カメラ北西方向が丸岡藩有馬家下屋敷跡になると思われます。