マーカーは篠山藩青山家下屋敷跡です。
関連リンク – 篠山藩青山家上屋敷跡、篠山藩青山家下屋敷跡(元玉窓寺跡)、篠山藩青山家鉄砲洲下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP818・コマ番号453/553から篠山藩屋敷の変遷について記載されています。P820・コマ番号454/553「中屋敷 青山」がこの地になります。
青山忠良
[文化3年(1806年)、4代藩主・青山忠裕の四男として誕生。天保6年(1835年)、父・忠裕の隠居により家督を相続する。天保8年(1837年)に寺社奉行、天保11年(1840年)大坂城代に就任。
弘化元年(1844年)に老中に抜擢された。弘化5年(1848年)、首席老中・阿部正弘が徳川斉昭を重用するのに反発し、水戸藩内の旧縁で斉昭に反目する水戸藩士の朝比奈某を焚きつけ、斉昭と親しい阿部を退けようと陰謀を企てたが、事前に計略が発覚し忠良は逆に詰め腹を斬らされる形で老中を辞任することとなり、幕閣を追放された。
文久2年(1862年)隠居。家督は次男・忠敏が継承した。
元治元年(1864年)、死去。 (wikipedia・青山忠良より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」[絵図中央右に青山下野守(青山忠良)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号2/5・絵図上中央左に青山左京大夫(青山忠敏)中屋敷が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – 五千分一東京図測量原図 : 東京府武蔵国赤坂区青山北町近傍(明治17・1884年)」(地図中央下・青山北町一丁目上に青山邸が描かれています。)
カメラ位置は港区立青山中学校校舎南西部で、カメラ南南東方向、港区立青山中学校校舎を含む、道路両サイドが篠山藩青山家下屋敷跡になります。