紀州徳川家抱屋敷(徳川宗家徳川家達邸)跡

マーカーは東京体育館です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP478・コマ番号283/553から和歌山藩(紀州藩徳川家)屋敷の変遷について記載されています。P483・コマ番号285/553「抱屋敷並添地 千駄ヶ谷」がこの地になります。

[嘉永3年(1850年)尾張屋板の切絵図には紀州藩下屋敷とありますが、幕府からの拝領ではなく買収により入手した抱屋敷でした。「南紀徳川史」でも入手時期・目的などは不明とありますが、「渋谷区史」によると『米沢藩上杉家家臣宮崎弥平次の抱屋敷を宝永6年(1709年)紀伊家家臣福原次左衛門の手を経て、正徳2年(1712年)紀伊家抱屋敷となった。』とあります。
この屋敷跡地は現在のJR千駄ヶ谷駅南側・東京体育館の辺りから鳩森神社に至る地です。
明治になると経緯は不明ですが、この広大な屋敷地は徳川宗家の所有となります。江戸城開城で大奥を出た天璋院篤姫は都内を転々とした後、この地に永住し、16代家達(明治4年の廃藩置県で静岡藩知事免職、千駄ヶ谷で暮らす。当時8歳)を養育しました。推測ですが、静岡藩知事を解任された家達が東京で住むための屋敷を紀州徳川家の千駄ヶ谷屋敷に求めたのではないでしょうか。
昭和18年(1943年)、紀元2600年記念事業として東京都が「武道館」建設の候補地として、宗家との間で譲渡が成立。
戦争のため武道館は建設されないまま終戦、昭和29年に東京体育館が建設されました(武道館は、昭和39年皇居北の丸にあった家達の生家である旧田安家跡地に建設された)。
「花葵徳川邸おもいで話」(保科順子、毎日新聞1998年)では、徳川宗家の屋敷地になった経緯を著者(17代家正の三女)が、家達の娘2人(綏子・綾子)にインタビューしていますが、「よく分からない」と答えています。
紀州徳川家が宗家へ譲渡したのではないだろうかと推測していたら、「南紀徳川史」には明治4年“千○弐拾五両”(明治4年に貨幣単位が円に移行)にて民間人へ売却とありました。その後、直ぐ、徳川宗家の本邸となりました。一旦、民間人に売却してワンクッション置いたでしょうか。
また、この「花葵」によると、徳川宗家の時には南は原宿まであり10何万坪であったとか。  (「紀州 in 東京(紀州藩江戸屋敷) – 和歌山社会経済研究所 …」より)]

東京都立図書館アーカイブ – 四ッ谷千駄谷内藤新宿辺絵図(嘉永2[1849]改)」(絵図四つ切右上・八幡宮下に紀伊殿、その左にも紀伊殿と記述されています。八幡宮下が国立能楽堂周辺、左が徳川家達邸跡、現在の東京体育館になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図(文久二年・1862年)」(絵図四つ切左下に紀伊殿下屋敷が二ヶ所描かれています。上の下屋敷は現在の国立能楽堂周辺、下の下屋敷は徳川家達邸跡、現在の東京体育館になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 千駄ヶ谷其外村々諸屋敷色分図. [1]」(コマ番号14/27・絵図中央に若山(※和歌山)藩知事抱屋鋪と描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 東京府豐多摩郡内藤新宿町千駄ヶ谷町」(地図中央右に徳川邸が描かれています。)

カメラ東方向が紀州徳川家抱屋敷(徳川家達邸)跡に建つ、東京体育館で、西側は津田塾大千駄ヶ谷キャンパス南側部分、国立能楽堂東端まであったと思われます。