マーカーは青山学院大学です。
関連リンク – 西条藩松平家(紀州徳川分家)下屋敷跡(NHK放送センター)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP832・コマ番号460/553に西条藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 青山百人町末 豊多摩郡青山七丁目」がこの地になります。
西条藩松平家上屋敷跡(青山学院大学)
[現在、青山学院大学が建っている敷地は、江戸時代には伊予国西条藩松平家の上屋敷でした。西条藩松平家は、紀州徳川家からでた親藩連枝で、徳川吉宗が将軍になったあとの紀州藩に藩主を送り込むなど、宗藩との関係が非常に深い家柄だったそうです。維新の興奮も冷めやらぬ明治4年(1871)、西条藩上屋敷跡地4万坪のうち約3万坪は、北海道開拓使の第1官園となります。東京に3つあった開拓使官園は、いまでいう農業試験場のようなもので、第1、第2官園(淀藩稲葉家下屋敷跡)では野菜・果樹類を育て、第3官園(佐倉藩堀田家下屋敷跡)では牧畜、牧草の育成をおこなっていました。当時、青山や渋谷はまだまだ田畑の広がるのどかな郊外で、西条藩上屋敷は、江戸時代に霊山・大山に詣でる巡礼で栄えた大山街道沿いにありましたが、版籍奉還、廃藩置県によって大名が立ち退いたあとは、広大な敷地をぜいたくに使うえるような状況になっていました。開拓使官園が早々と北海道に移転したあと、空いた敷地に目をつけたのが、合併をめざして新校地を探していた2つのキリスト教系学校です。横浜山手に開校していた「美會神学校」と、東京築地にあった「東京英学校」で、これがのちに青山学院大学の原形となります。彼らは明治15年(1882)に、総額6千円で念願の校地を購入し、それ以来、青山の地は青山学院大学の中心となったのです(現在の区画では、渋谷区渋谷3丁目となっています)。 (「北海道開拓と青山学院:藩邸イルミネーション2[西条藩上屋敷] 」より)]
[江戸時代はじめ。二代将軍・徳川秀忠が鷹狩に出掛けた。鷹狩とは、鷹を使った狩猟のことであり、武士の鍛錬であると同時に、軍事演習としての側面も兼ね備えていた。その時に側近の長谷川久三郎正吉に対して、渋谷村85,000坪余の広大な土地を与えた。青山キャンパスは彼の屋敷地の一角に該当する。
では、秀忠の側近であった長谷川久三郎正吉とはいかなる人物か。江戸時代の大名と旗本の家系について記した『寛政重修諸家譜』という史料を紐解いてみよう。長谷川家の祖は源頼朝に仕えた御家人・下河辺政義であった。下河辺政義は、ムカデ退治で有名な俵藤太こと、藤原秀郷の末裔である。下河辺政義の二男・小川政平から数えて三世孫が大和国長谷川(初瀬川とも。現在の奈良県桜井市)に住んだことから「長谷川」と称したと伝えられている。その後、駿河国小川に居住し、後に田中へ移ったという。現在の静岡県焼津市内だ。
駿河国へと移った長谷川家は、「海道一の弓取り」と称された戦国大名・今川義元に仕え、桶狭間の戦いによって義元が討たれた後、徳川家康に仕えた。元亀 3 年(1572)、武田信玄と家康が三方ヶ原で決戦するが、その際、討死した長谷川正長は久三郎正吉の父に当たる。久三郎正吉は、家康の息子・秀忠の側近として活躍し、上野国内(現在の群馬県)で4070石余を領有する幕府の旗本となっていった。旗本の多くが1000石以下であったことを考えると、大身の旗本である。加えて、旗本であるにも関わらず、85,000坪余の土地を拝領している点は異例と言えよう。
以後、代々長谷川家は徒頭(かちがしら)や先弓頭という幕府主力軍団の隊長を務めた。なお、池波正太郎『鬼平犯科帳』で有名な火付盗賊改・長谷川平蔵は久三郎正吉の兄である宣次の末裔である。
元禄 8 年(1695)7 月、時は五代将軍・綱吉の時代。まだ、赤穂浪士が世間を騒がせる前のこと。長谷川家の屋敷地のうち 4 万坪と、伊予西条(現在の愛媛県西条市)の大名である松平家の屋敷地(※紀州徳川家下屋敷、現在の鍋島松濤公園の地。)2万坪とを交換することとなった。
伊予西条松平家は紀伊大納言徳川頼宣の二男・頼純に始まる。徳川頼宣は家康の十男であるので、頼純は家康の孫に当たる。頼純は寛永18年(1641)に誕生。最初は紀州藩邸内に居住していたが、「江戸幕府日記」によれば、明暦 4 年(1658)5 月15日に頼純が尾張徳川家の四谷屋敷の中に屋敷を下され、18日には父親の頼宣とともに登城して御礼を述べた記事があり、この頃独立したものと思われる。寛文10年(1670)に伊予西条3万石の地を与えられた。しかし、頼純は常に江戸にいなければならない、いわゆる「定府」の大名であるため、寛文10年・元禄7 年・同11年・同15年・宝永 5 年(1708)しか西条へ入国していない。したがって、元禄 8 年(1695)7 月相対替以降、ほとんどを青山キャンパスの地で生活していたと言えよう。 (「青山学院史探訪-江戸時代の青山キャンパスの「お殿様」・国文学研究資料館准教授 西村慎太郎」より)]
[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、『元禄8年(1695)2月 – 中渋谷の紀伊徳川家下屋敷の一部、西条藩主松平家上屋敷となり、まもなく旗本長谷川家と相対替する。7月 – 旗本長谷川家屋敷、相対替で西条藩主松平家上屋敷(旧緑岡町)となる。』と記述されています。]
西条藩松平家上屋敷跡資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図左中下・松平左京大夫(松平頼学)上屋敷が西条藩松平家です。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号2/5・絵図四つ切右下、松平左京大夫が描かれています。)
「東京都立図書館アーカイブ – 東京府豊多摩郡澁谷町(出版年-1911.11)」(地図中央右上・青山学院、青山学院女子学院のエリアが西条藩松平家上屋敷跡になります。)
カメラ南南東方向が西条藩松平家上屋敷跡(青山学院大学)です。
青山学院大学キャンパスのストリートビューです。