マーカーは西条藩松平家(紀州徳川分家)下屋敷跡です。
関連リンク – 西条藩松平家上屋敷跡(青山学院大学)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP832・コマ番号460/553に西条藩屋敷の変遷について記載されています。「下屋敷 渋谷 豊多摩郡渋谷町」がこの地になります。
西条藩松平家
[西条藩(さいじょうはん)は、江戸時代に伊予国に存在した藩。藩庁は伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)の西条陣屋。
江戸時代初期には外様大名の一柳家が治めたが、3代約30年で改易となった。その後、徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族(御連枝)が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。
寛文5年(1665年)、一柳直興は職務怠慢や失政などを理由として改易処分を受け、西条は一時公儀御料となった。
5年の空白を経て、寛文10年(1670年)紀伊国紀州藩初代藩主徳川頼宣の三男松平頼純が紀州藩の支藩として3万石で入封した。紀州徳川家(紀州藩主家)が絶えた場合に備えた。第2代頼致は紀州藩主徳川吉宗が将軍となったため紀州徳川家・紀州藩主を継いだ。松平家は参勤交代を行わない定府の大名だった。
元禄7年(1694年)には藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が高田馬場の決闘を行い、堀部武庸の助太刀で評判になった。
藩主松平家は徳川一門の親藩でありながら、明治維新の際にはいち早く新政府に恭順の姿勢を示し、官軍として戊辰戦争に参戦した。明治2年(1869年)の版籍奉還と同時に最後の藩主松平頼英は知藩事となり、華族に列している。
明治4年(1871年)廃藩置県により西条県となった。 (wikipedia・西条藩より)]
[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、
●元禄8年(1695)2月 – 中渋谷の紀伊徳川家下屋敷の一部、西条藩主松平家上屋敷となり、まもなく旗本長谷川家と相対替する。7月 – 旗本長谷川家屋敷、相対替で西条藩主松平家上屋敷(旧緑岡町)となる。【※鍋島松濤公園(紀州徳川家下屋敷跡)と西条藩松平家上屋敷跡(青山学院大学)に関する記述。】
●享保13年(1728)9月 – 松平左京大夫が願主となり北谷稲荷社が再建される。
●明和8年(1771)7月 – 北谷稲荷社を松平左京大夫が願主となつて再建する。
とされ、岸和田藩岡部家下屋敷地の間にある北谷稲荷社の関わりについて記述されています。]
「地形との関係 江戸時代の代々木公園周辺 現在の代々木公園周辺」
「国立国会図書館デジタルコレクション – [江戸図正徳四(1714)年](コマ番号3/5・絵図右上、井伊掃部頭上屋敷左にオカベミノ、松平左京と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 市ヶ谷四谷青山代々木辺迄 : 寛保延享ノ頃(1741年-1748年)」(コマ番号4/6・絵図中央右に松平左京(松平頼邑)と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図(寛政4 [1792])」(コマ番号3/7・絵図左上に松平左京下屋敷、紀伊殿下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号4/5・絵図四つ切右上に松平右京大夫下屋敷、抱屋敷が描かれています。)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。1896~1909年の地図で、代々木練兵場の北谷稲荷の上に岡部ヶ池が描かれています。また、そこの左側のエリアにも水源と思える沢と池が描かれています、このエリアが西条藩松平家(紀州徳川分家)下屋敷跡になると思われます。)
カメラ位置はNHK放送センター西口前のカメラです。