諏訪藩諏訪家下屋敷跡・相良藩田沼家下屋敷跡

マーカーは諏訪藩諏訪家下屋敷跡です。

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諏訪忠誠
[諏訪 忠誠(すわ ただまさ)は、文政4年(1821年)、信濃諏訪藩第8代藩主諏訪忠恕の長男に生まれる。天保11年(1840年)、父の隠居に伴い家督を相続した。外祖父の松平定信は忠誠の人となりを見て、将来有望であると太鼓判を押した。その予想通り万延元年(1860年)若年寄文久2年(1862年)寺社奉行元治元年(1864年)には老中に就任する。
同年、武田耕雲斎率いる水戸天狗党(総勢1000人の浪士)は京を目指し、10月20日には諏訪藩領内の和田峠を越えようとさしかかった。幕府は高島藩と隣の松本藩に出兵を命じ、諏訪・松本両藩2000人は和田峠で迎撃をしたが、藩兵は6名の犠牲者を出し、突破されている。
一方、幕府では若年寄、寺社奉行、老中と昇格したが、老中在任中の慶応元年(1865年)、将軍・徳川家茂長州征討のため出陣するのに強く反対し、同じ立場だった長岡藩主の牧野忠恭とともに老中職を罷免された。
慶応4年(1868年)5月24日に隠居し、養嗣子とした甥の忠礼に家督を譲った。  (wikipedia・諏訪忠誠より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP769・コマ番号428/553から相良改小久保藩上屋敷の変遷について記載されています。P775・コマ番号431/553「下屋敷 中渋谷」がこの地になります。

[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、
●万治元年(1658) – 高島藩(※諏訪藩の別名)主諏訪家抱屋敷、拝領屋敷(旧金王町)となる。
●文化元年(1804)12月 – 諏訪家下屋敷の一部(旧金王町)が上知となり、相良藩田沼家下屋敷(田沼意正)となる。
と記述されています。]

[田沼意正は、藩祖・田沼意次の四男で、安永3年(1774年)7月27日、老中水野忠友と養子縁組し、その娘と結婚して水野忠徳(ただのり)と名乗る。しかし、天明6年(1786年)9月5日、実父・意次の失脚により、養子縁組を解消されて田沼家に戻された。
文化元年(1804年)7月26日、従子である陸奥国下村藩主・田沼意定の死去により、末期養子として田沼本家の家督を相続した。文政2年(1819年)8月8日、若年寄(西丸)に就任した。文政6年(1823年)7月8日、忠友の跡を継いだ水野忠成の推挙や11代将軍・徳川家斉の尽力もあって、旧領である遠州相良への復帰を許された。文政8年(1825年)4月18日、側用人(西丸)となった。  (wikipedia・田沼意正より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」[絵図中央左方向・諏訪因幡守(諏訪忠誠)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [12]拾七下(嘉永元年・1848年)」(コマ番号5/7・絵図中央下に諏訪因幡守(諏訪忠誠)下屋敷が描かれています。そこの右下に田沼玄蕃頭(田沼意尊)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [11]拾七下」(コマ番号190/196-194/196の絵図中央に諏訪家下屋敷が描かれています。また、コマ番号194/196「当時之形(嘉永元年・1848年)」の絵図の諏訪因幡守(諏訪忠誠)下屋敷右上に田沼玄蕃頭(田沼意尊)下屋敷が描かれています。)

東京府豊多摩郡渋谷町全図|公益財団法人特別区協議会」(地図中央上・大字南町七丁目13-24番が諏訪藩諏訪家下屋敷跡になると思います。)

カメラ位置は渋谷二丁目13北角で、カメラ南方向が諏訪藩諏訪家下屋敷跡になると思います。

カメラ位置は渋谷二丁目13西角で、カメラ東北東方向角地付近が相良藩田沼家下屋敷跡になると思います。