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道玄坂
[坂道としての道玄坂はかつての住所で渋谷区上通3丁目に位置し、宮益坂のふもとから続いて西に上っている。上は玉川通りの道玄坂上交差点から、下は渋谷駅前までである。一時期は玉電が坂の中腹から道玄坂上までを走り、現在では玉電の代替とした新玉川線が名称変更した東急田園都市線が坂の地下を通過している。名称は、「道元坂」、「道源坂」と表記されることもあった。道玄坂は、谷底である渋谷川を挟んで宮益坂(富士見坂)と対面しており、江戸時代に著された『江戸町づくし』には、「行人坂」としても紹介されている。 (wikipedia・道玄坂より)]
[所在地 渋谷区道玄坂
道玄坂
江戸時代以来、和田義盛の子孫大和田太郎道玄がこの坂に出没して山賊夜盗のように振る舞ったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられます。
平成16年(2004)度 渋谷区教育委員会 (「東京都渋谷区の歴史 道玄坂」より)]
[所在地 渋谷区道玄坂2-10 (道玄坂)
道玄坂道供養碑
渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷附近はひらけだした。近くに住んだ芥川龍之介・柳田國男がここを通って通学した。坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思いでもある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。
樋口清之 (「東京都渋谷区の歴史 道玄坂道供養碑(道玄坂)」より)]
[「昔、今の環六と淡島通りの交差する駒場一丁目付近に、道玄太郎という山賊がいましてね。その道玄がこの付近にあった松の大木に登って、旅人をねらっていたそうです。まあ、そんな話から、渋谷には道玄坂があり、道玄の登った松の大木を道玄物見の松といい、その名から松見坂という坂名がついたと、よく祖父から聞いたものです」と、土地っ子、宗田淳さんはいう。 (「目黒の坂 松見坂 目黒区」より)]
滝坂道標柱説明文
[滝坂道(甲州街道出道)は、かつての大山道が道玄坂から分岐をし、武蔵国府のあった府中に向かっていた古道で、その起源は江戸幕府が開府する前からと考えられています。滝坂道は、目黒区北部を通り、世田谷区を横断して、調布市で甲州街道と合流します。名称の由来は、甲州街道の滝坂で合流することから滝坂道と呼ばれたようです。現在は、裏渋谷通りの愛称で親しまれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図」(絵図左端中上程に道玄坂が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「富士見坂一本松」(8-35)、「富士見坂解説」(8-34)、「富士見坂、道玄坂解説」(8-36)、「駒場野」(8-37)、「駒場野解説」(8-38)
富士見坂一本松(拡大図)
[古道「滝坂道松見坂」から東側を見た図会で、図会手前の一本松(道玄物見の松)が描かれる場所は、古道「滝坂道松見坂」になります。一本松の下に庚申塔、その右の地蔵が松見地蔵で、手前に遠江橋が描かれています。図会左ページ左上に「ふじみ坂」(宮益坂)、そこの対面に道玄坂が描かれています。]
駒場野(拡大図)
[古道「滝坂道松見坂」から西側を見た駒場野です。]
狂歌江都名所図会 – 道玄坂(拡大図)
道玄坂上・カメラ位置は道玄坂上交番西で、カメラ北西方向に滝坂道の案内標柱が設置されています。
道玄坂上標識・カメラ北北東方向、南南西方向が道玄坂で、カメラ東北東方向、歩行者信号の左に道玄坂の標識柱があります。また、その右後方に道玄坂道供養碑があります。
道玄坂下・カメラ西方向が道玄坂です。