マーカーは鍋島松濤公園です。
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鍋島松濤公園
[鍋島松濤公園(なべしましょうとうこうえん)は、渋谷区が管理する公園のひとつ。東京都渋谷区松濤二丁目にある。
湧水池を中心に各種草花が彩る公園である。当公園の湧水池は渋谷界隈でも数少ない湧き水のひとつとなっており、水車も設置されている。
公園の面積は5012m2公園の名称は、かつてこの地にあった茶園 『松濤園』に因む。
●開園時間: 常時開園
●料金: 入園無料
●京王井の頭線神泉駅より徒歩3分、また渋谷駅より徒歩12分
元々当地一帯は江戸時代には紀州徳川家の下屋敷があったところで、1876年(明治9年)に佐賀の鍋島家に払い下げられた。鍋島家は当地に茶園を開いて「松濤園」と名付け、「松濤」という名で茶の販売も行っていた。1932年(昭和7年)になると茶園は廃止され、湧水池のある一角が児童遊園として整備され、1932年(昭和7年)に東京市に寄贈された後、1950年(昭和25年)からは渋谷区に管轄が移されて現在に至っている。
鍋島松濤公園・wikipedia-photo (wikipedia・鍋島松濤公園より)]
[この一帯はもともとの地名を大山といい、江戸時代には紀州徳川家の下屋敷があった。1876年(明治9年)、旧佐賀藩主の鍋島家がこれを譲渡され、狭山茶を移植して茶園を開き、「松濤園」と命名した。茶の銘柄も『松濤』とされ、一時は東京市中に知られたものの、1890年(明治23年)に東海道線が開通すると静岡産などが流入、松濤園の茶業は振るわなくなった。
このため茶園は廃止され、1904年(明治37年)には果樹園となって畑果樹園種蓄牧場 「鍋島農場」と呼ばれた。農場地は大正時代の関東大震災を契機として移住者向けに分譲されて高級住宅地となった。1924年(大正13年)、鍋島家は涌水池のあった一角を児童遊園として公開、さらに1932年(昭和7年)10月にはこれを東京市に寄付し、1934年(昭和9年)4月からは渋谷区によって管理されることになった。
この間、「松濤」は1928年(昭和3年)に住所町名として採用された。湧水地のある広大な鍋島侯爵邸は戦後の華族制度廃止により公園として整備され現在では鍋島松濤公園となった。 (wikipedia・松濤より)]
[水野忠邦は2回目の老中辞職後の謹慎処分でここ中渋谷村の下屋敷で蟄居生活を送ることになり、その期間は7年間にわたります。最後は病状悪化もあり三田の屋敷に戻ることを許されますが、失脚後のほとんどの期間をここで過ごしたと言っていいでしょう。
その中渋谷村の下屋敷についての『新修渋谷区史』の記述を見てみると、「松濤町一帯」の項にこの付近の大名等の屋敷地について記述があります。それによれば、延宝年間に紀伊家下屋敷となった5万坪が、元禄8年に2万坪を伊予西条藩松平左京大夫(松平頼純)家に割譲(残った紀伊家分3万坪は一部を除きほとんどそのまま明治維新にいたる)、その後すぐ旗本長谷川五兵衛の青山屋敷4万坪(現青山学院の地)と交換、その長谷川邸は天保8年に水野忠邦の下屋敷に半分ほどを割譲となっています。
ちなみに、その時の図が国会図書館のデジタルコレクションで見ることができます(コマ番号72。さらに次の73を見ると芝高輪の水野家下屋敷の一部との相対替であったことがわかります)。
さらに残地も天保14年には水野家のものとなり、2万坪全域が水野家下屋敷となったとのことです。
その模様をまた「今昔散歩」の地図で見てみると、北側が紀州家、南側が長谷川久三郎(家)となっています。上記経緯から見て長谷川五兵衛(家)は長谷川久三郎(家)と同一だろうと考えられます。
この地こそは水野忠邦が長谷川家に養子に入った弟の久三郎守修から譲り受け、後に失脚後の晩年をほぼ過ごした下屋敷ということになるでしょう。 (「平成27年3月15日(日) 水野忠邦中渋谷下屋敷について …」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP478・コマ番号283/553から和歌山藩(紀州藩徳川家)屋敷の変遷について記載されています。P481・コマ番号284/553「下屋敷 中渋谷」がこの地になります。
[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、
『●延宝4年(1676)10月 – 中渋谷に紀伊徳川家下屋敷ができる。
●元禄8年(1695)2月 – 中渋谷の紀伊徳川家下屋敷の一部、西条藩主松平家上屋敷となり、まもなく旗本長谷川家と相対替する。7月 – 旗本長谷川家屋敷、相対替で西条藩主松平家上屋敷(旧緑岡町)となる。
●天保8年(1837)9月 – 中渋谷の旗本長谷川邸、沼津藩主水野家下屋敷となる。』と記述されています。]
長谷川久三郎参考 – 「青山学院史探訪-江戸時代の青山キャンパスの「お殿様」・国文学研究資料館准教授 西村慎太郎」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [4]拾六中](弘化三年・1846年)」(コマ番号5/5・地図左中央に紀伊殿下屋敷と水野金五郎(水野忠精)下屋敷と描かれ、紀伊殿下屋敷に三田用水が描かれ、紀伊殿下屋敷左下から分水路が描かれています。また、水野金五郎(水野忠精)下屋敷右方向に湧水池・神泉谷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [3]拾六中」(コマ番号104/136・「延宝四(1676)年之形」右ページに紀伊殿と描かれています。コマ番号105/136・「正徳三(1713)年之形」紀伊殿屋敷の右上が長谷川五兵衛となっています。コマ番号106/136「当時(弘化三年・1846年)之形」で長谷川五兵衛の屋敷地が水野金五郎(水野忠精)下屋敷地になっています。)
カメラ西北西方向が鍋島松濤公園です。
鍋島松濤公園内のカメラです。