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青山百人町
[青山百人町は現在の善光寺の辺りの旧町名です。これは青山の地名の由来になったと言われる青山忠成が、この一帯に鉄砲百人組の与力・同心を住まわせていたことに由来します。旧暦の7月には、各戸に盆灯籠を高々と掲げる「星灯籠」と呼ばれる祭事が明治の初め頃まで行われていました。 (「港区ゆかりの人物データベースサイト 青山」より)]
[「百人町」という地名は 大久保の鉄砲百人隊がいたところが有名ですね、あちらは「内藤家」の近所、こちらは もちろん「青山家」の元敷地です。両者とも 徳川家康が最初に江戸を開いた頃に、広い敷地を頂いている譜代の家臣です。青山百人町にも 江戸城警護の与力・同心たちの組屋敷がありました。今の地下鉄「表参道」界隈です。このあたりは、江戸時代には武家屋敷の塀に囲まれた昼でも暗いようなところでした。青山家の墓地・梅窓院や 長野善光寺の別院(尼寺・善光寺)が今でも残ってます。
この百人町では 6月の晦日から7月の晦日まで、家々で盆灯篭を 高い棹の先につけて飾る風習がありました。2代将軍・徳川秀忠が 江戸城で亡くなった年から始まったと言います。年々、七夕の笹と同じで「高さ」を競うようになったので、これを遠くから見ると、百人町の上にたくさんの星が出ているように見え、「百人町の星燈籠」または「星提灯」と 呼ばれました。
7代将軍・徳川家継が目黒にお成りの帰り道、遠くからこれを目にして、お付の者にたずねたところ 「台徳院(秀忠)さまの菩提を弔うため、与力・同心たちが続けている」と聞いて、感心し、報奨金を賜ったということです。それ以来「星燈籠」は年中行事となり、この期間青山百人町は江戸の名所でもありました。 (『江戸・東京ときどきロンドン : 青山百人町の「星燈籠」』より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 青山長者丸辺図(嘉永4・1851年)」(絵図中央右上方向に青山百人町が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六・1853年」(絵図中央に百人町ト云と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 青山百人組屋敷図」
カメラ位置は善光寺前です。