高野長英隠れ家跡

マーカーは「高野長英先生隠れ家」の碑です。

高野長英隠れ家跡
[スパイラルの建つ南青山5丁目界隈は、江戸時代には青山百人町と呼ばれていた。御家人の屋敷が多数並ぶ一帯で、その中に幕末の蘭学者である高野長英の終焉の地となる隠れ家があった。これを記念する碑が1963年に当地に建てられ、スパイラルの建設時に表参道寄りの柱の内部に移設されている。「高野長英先生隠れ家」の碑・wikipedia-photo  (wikipedia・スパイラル_(建築物)より)]

[顔を薬品で焼いて人相を変え各地を転々とした長英は、やがて江戸に戻り、嘉永3年(1850)3月に青山百人町に隠れ棲みます。ここは幕府の与力や同心の組屋敷が集中していたところで、与力小島家には質屋伊勢屋の離れがありました。長英は沢三伯などと変名し、そこで医業を営みます。
しかし、同年10月晦日の夕暮れ、出先から戻った小路で幕吏に襲われ死亡。現・南青山の終焉の地には、「高野長英先生隠れ家」と刻まれた石碑が立っています。  (「港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (高野長英)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図」(絵図中央上方向の百人町通り下、善光寺の左下方向の与力屋敷地、中程に小島勘次郎と記述されています。)

高野長英隠れ家跡 – Google Map 画像リンク」、「高野長英終焉の地 – Google Map 画像リンク

カメラ東方向・スパイラルビルの壁に「高野長英先生隠れ家」の碑が設置されています。

[高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日(1804年6月12日) – 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者である。通称は悦三郎、は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。実父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。江戸幕府異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け、それを見ることなく亡くなった。しかし、開国が実現した後(1898年(明治31年)7月4日)、その功績により正四位を追贈された。主著に『戊戌夢物語』、『わすれがたみ』、『三兵答古知機』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。「高野長英像 渡辺崋山の弟子、椿椿山により天保前半頃描かれる。奥州市立高野長英記念館蔵、重要文化財」・wikipedia-photo
陸奥国水沢伊達氏家臣・後藤実慶の子として生まれる。養父の玄斎は江戸杉田玄白に蘭法医術を学んだことから家には蘭書が多く、長英も幼いころから新しい学問に強い関心を持つようになった。文政3年(1820年)、江戸に赴き杉田伯元吉田長淑に師事。この江戸生活で吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。
シーボルト事件
文政3年(1820年)、父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルト鳴滝塾医学蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となっている。文政11年(1828年)、シーボルト事件が起き、二宮敬作高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英はこのとき巧みに逃れている。まもなく豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという(異説もある)。この間、義父玄斎が亡くなっており、長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが、逡巡したもののついに拒絶。家督を捨て、同時に武士の身分を失っている。
尚歯会入会
天保元年(1830年)江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾(大観堂学塾)を開業する。まもな三河国田原藩重役渡辺崋山と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。わが国で初めて、ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロックヴォルフに至る西洋哲学史を要約した。
天保3年(1832年)、紀州藩儒官遠藤勝助の主宰する、天保の大飢饉の対策会である尚歯会に入り、崋山や藤田東湖らとともに中心的役割を担った。長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果である。
鳴滝塾出身者の宴会で、オランダ語以外の言葉を使うと罰金をとるという決まりが設けられた。多くの者は酒が入るうちついつい日本語をしゃべって罰金を取られていたが、長英のみオランダ語を使い続けていた。それを妬んだ仲間の伊東玄朴が、長英を階段から突き落としたが、長英は「GEVAARLIKI!」(オランダ語で「危ない!」)と叫んだ、というのがある。長英自身才能を鼻にかけて増長する傾向があり、仲間内の評判も悪かったが、当時の蘭学者として最大の実力者であると周囲は認めざるを得なかった。
蛮社の獄
天保8年(1837年)、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。この際長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。長英はそうした意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている)。
天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。獄中記に『わすれがたみ』がある。
弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。脱獄の際、三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すとの警告を牢の役人から受けたが、長英はこれを無視し、再び牢に戻って来ることはなかった。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも(江戸では人相書きが出回っていたためと言われている)硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続け、一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも春山が急死。その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予国宇和島藩伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したものとされる。しかし、この生活も長く続かず、しばらくして江戸に戻り、沢三伯の偽名を使って町医者を開業した。医者になれば人と対面する機会が多くなるため、その中の誰かに見破られることも十分に考えられた。そのため硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。
嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという。現場にいたある捕手役人の覚書による。しかし、奉行所に提出された報告書によれば、長英は短刀を振るって奮戦した後、喉を突いて自害したとある。
なお、確証はないが、江戸において勝海舟と会談した、あるいは勝に匿ってもらったという話も伝えられている。  (wikipedia・高野長英より)]

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