中坊陽之助屋敷跡、亀井吉十郎屋敷跡

マーカーは明治大学 駿河台キャンパスです。

[「キャンパスは武家屋敷!? ~明治初年の東京都市計画と明治法律学校開校地~」で、明治法律学校(※明治大学)が、明治14(1881)年に有楽町数寄屋橋島原藩松平家の上屋敷を借りて開校し、19年に日大御茶ノ水キャンパス体育施設付近の旧旗本屋敷地に移ったことが紹介されている。その後、44年にリバティタワーの建つ現地に新校舎を建築する。この地も、四千石の大身旗本中坊家の屋敷地で、維新後に小松宮邸になっていたものである。
 江戸時代末期に刊行された「江戸切絵図」の一枚、「駿河台小川町絵図」(○数字は該当場所)を見ていただきたい。中坊陽之助の北側角地に亀井吉十郎の名前が見える。ちなみに、通りの向うの朝比奈金五郎の敷地は大学会館である。
 亀井家は御小納戸役五百石の旗本であった。明治3年に、幕臣中川家から忠一を婿養子に迎え、静岡に転居する。明治6年に再び東京に戻り、麹町(現新宿区三栄町)に履物屋を開業するも、大火で焼け出され、古本屋を営んでいた兄を頼って神田に戻る。そして明治14年、本学が孜々の声を上げた、まさにその年に、現在の三省堂書店ビルの南東角に古本屋「三省堂」を創業するのである。
その後は、学生街の立地を生かして、辞書と教科書の出版、新刊書販売に事業拡大し(後に出版と販売を分離)、冨山房(明治19年創業)や東京堂書店(明治23年創業)などとともに、本の街のリーダー的存在になっていく。
 大正12年の関東大震災では、本学同様に、社屋を消失し大打撃を受ける。しかし、再興も早く、昭和の初期には、学生向けの文房具、運動具、学生服、靴、化粧品、前売り切符などを扱って、「学生のデパート」と称されるようになる。本学の学生も、お世話になったことだろう。  (「明治ですから! > 大学史の散歩道 > 明治大学と三省堂書店 ―本の街でともに歩んだ125年―」より)]

[幕末の国学者・塙忠宝[塙保己一・和学講談所跡)の四男]は幕臣中坊陽之助邸(駿河台)で開かれた和歌の会から帰宅したところ、自宅兼和学講談所の前で知人の加藤甲次郎と共に何者[大正10年(1921年)の六十年祭の折に渋沢栄一はこの暗殺者が伊藤博文山尾庸三であったと明らかにしている。]かに襲撃され、翌日死去した。  (wikipedia・塙忠宝より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図中央左寄り土屋采女正(土屋寅直)上屋敷下の右下方向に中坊陽之助、その下に亀井吉十郎、亀井吉十郎下に朝比奈金五郎と描かれています。また、朝比奈金五郎の左の小栗又一が小栗上野介屋敷になります。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五(1808)年調」(コマ番号2/4・絵図中央「土屋保三郎(土屋寛直)」左下に「中坊兵庫助」と「東条正之進」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 1号」(コマ番号3/6・絵図中央左上方向「歩兵屯所」の左下に「中坊陽之助」「亀井捨八郎」が描かれています。)

カメラ西北西方向が明治大学 駿河台キャンパスで、カメラ方向左に中坊陽之助屋敷が、右に亀井吉十郎屋敷があった。

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